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20200330【論考】石川県由縁の作家と戦争、とくに犀星の戦争詩について

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【論考】石川県由縁の作家と戦争、とくに犀星の戦争詩について

目次
はじめに
Ⅰ 概略:①泉鏡花/②徳田秋声/③鶴彬/④中野重治/⑤島田清次郎/⑥杉森久英
Ⅱ 犀星:動機/①随筆を対象化/②作家的原点/③プロレタリア文学への親和/④プロレタリア文学に別離/⑤政府高官との接触と躊躇/⑥追いつめられる犀星/⑦政府とメディアと作家/⑧戦後、戦争詩を削除
Ⅲ 戦争詩の政治的役割と私達

はじめに
 明治以降の近代文学は戦争と弾圧のなかで、あるいは否定的に、あるいは順応的に育まれてきた。江華島事件、日清戦争(台湾割奪)、日露戦争(樺太・千島略奪)、朝鮮併合(植民地化)、第1次世界大戦(欧州戦争)、シベリア出兵、満州事変(中国東北部侵略)、盧溝橋事件(日中開戦)、日米開戦(アジア太平洋侵略戦争)と、戦争が打ち続く77年だった。
 その戦争遂行のために、弾圧と検閲・発禁が伴走した。1869年出版条例、1873年新聞紙発行条目、1875年讒謗律、1975年新聞紙条例、1884年爆発物取締罰則、1887年保安条例、1893年出版法、1900年治安警察法、1909年新聞紙法、1911年特別高等警察設置、1921年興行場及興行取締心得、1925年治安維持法、1926年日本文藝家協会、1936年不穏文書臨時取締法、1937年国民精神総動員計画、1937年帝国芸術院、1937年文化勲章令、1938年国家総動員法、1939年映画法、1940年情報局設置、1940年体制翼賛会結成、1941年新聞紙等掲載制限令、1941年言論・出版・集会・結社等臨時取締法、1942年ペン部隊、1942年日本文学報国会設立へと弾圧と検閲と動員のための法律や機関が次々とつくられていった。
 その戦争のなかで作家生活をおくった室生犀星をはじめとした石川県由縁の作家たちは、自らを表現するために、七転八倒の苦悩を抱え込んでいたに違いない。その苦悩と反省のなかから、現代の表現者のあり方を問いたいと思う。
 本論考の主要テーマは「室生犀星と戦争」であるが、<Ⅰ項 概略>では犀星と同時代の石川県由縁の作家、泉鏡花、徳田秋声、中野重治、鶴彬、島田清次郎、杉本久英の作品に表れた戦争観の概略を俯瞰しておきたい。犀星については、<Ⅱ項 本論>で展開する。

Ⅰ 概略:石川の作家と戦争
(1)泉鏡花
 泉鏡花は戦争をテーマにした作品として、日清戦争中に『予備兵』、戦後に『海城発電』、『琵琶伝』、『凱旋祭』、日露戦争中に『柳小島』を執筆している。

1894年『予備兵』
 日清戦争で、予備兵として召集された陸軍少尉の物語である。第四高等中学医学部講師が娘の円(まどか)と恋仲にある少尉と結婚させようとしていたが、すでに召集令状が届いていて、8月中旬の早朝、部隊は金沢城の南門を出発したが、手取川まで来たところで、少尉が日射病で倒れ、運搬婦に変装してついてきた円に見守られて死ぬ。

 日清戦争への挙国一致的状況下で、義母から「ねえお前、恐多いことだけれども、天子様の御心をお察申上げた日には、数にも足りない私たちのやうな老朽(としより)だッて、なかなか安閑としちや在られまいぢやないかね」と同意を求められても、陸軍少尉は飽くまでも冷静に対応している。戦争熱に浮かされた壮士からリンチを受けても、恭順せず、名を聞かれた陸軍少尉は「姓は卑屈、名は許多(いくらも)あります。無気力、破廉恥、不忠不義とも国賊とも」と答えている。日清戦争の真っただ中で、鏡花は反戦・非戦的ではないが、戦争と一線を画しているようだ。

1896年『海城発電』
 日清戦争で、捕虜となった赤十字の日本人看護員が解放された後、軍夫に査問され、敵の情報を話せと迫られても、頑として言うことを聞かない看護員の話しである。「看護員たる躰面を失つたとでもいふことなら、弁解も致します、罪にも服します、責任も荷ふです。けれども愛国心がどうであるの、敵愾心がどうであるのと、左様なことには関係しません。自分は赤十字の看護員です」と、国際赤十字社員の敵味方区別なく看護するという立場を崩さないのである。しかし、看護員の知人・柳李花が日本人軍夫に陵辱され殺される場面で、看護員は看護員としての義務にだけ忠実にして、李花を見捨ててしまう。軍夫も、看護員もその任務・義務に縛られて、人間性を失わせる戦争の不条理を見つめる鏡花の醒めた目がそこにあるようだ。

1896年『琵琶伝』
 お通は従兄弟の謙三郎と好き合っているにも拘わらず、陸軍尉官に無理やり嫁がせられた。謙三郎は徴兵され、お通の母親は、せめて一目でも顔を見せてから行くように頼んだ。もし会いに行けば集合時間に間に合わず、脱営者となるので、謙三郎は拒んだが、自分も本心は会いたい一心で、ついに願いを聞いた。
 謙三郎はお通を訪ねたが入れてもらえず、「三昼夜麻畑の中に蟄伏(ちっぷく)して、一たびその身に会せんため、一粒(りゅう)の飯(いい)をだに口にせで、かえりて湿虫(注:ワラジムシ)の餌(えば)となれる」。「万籟(ばんらい)天地声なき時、門(かど)の戸を幽(かすか)に叩きて、『通ちゃん、通ちゃん。』と二声呼ぶ」。老夫(じじい)が戸を開けると、謙三郎は持っていた銃剣で老夫の喉を突いて殺し、陸軍尉官に捕らえられ、わずか一瞬の逢い引きだった。
 「出征に際して脱営せしと、人を殺せし罪とをもて、勿論謙三郎は銃殺されたり。」お通が謙三郎の墓参りに行くと、良人(陸軍尉官)が、足で蹴って痰をぺっと吐きかけている。お通が駆け寄り、良人(陸軍尉官)の首に噛みつき、お通は撃たれ、「『謙さん。』といえるがまま、がッくり横に僵(たお)れたり」。

1897年『凱旋祭』
 日清戦争の戦勝に酔う人々のなかで、戦死した少尉夫人の悲しみに同情する鏡花の姿勢は明らかに非戦の立場にある。「式場なる公園(注:兼六園)の片隅に、人を避けて悄然(しょうぜん)と立ちて、淋(さび)しげにあたりを見まはしをられ候、一個(ひとり)年若き佳人にござ候」、「あらゆる人の嬉しげに、楽しげに、をかしげに顔色の見え候に、小生(注:鏡花)はさて置きて夫人のみあはれに悄(しお)れて見え候」と、戦争が家族を引き裂く悲しみを描いている。
 徴兵令は1873年に発布されたが、当初は国民から受け入れられなかった。軍人勅諭(1882年)や教育勅語(1890年)の普及、日清・日露戦争で定着していったが、鏡花は徴兵よりも愛を重視する青年を描いた。1893年に出版法が成立したが、その翌年の作品であり、まだ反戦・非戦の論調は伏せ字にもされず、人々の心を揺さぶっていた。

1904年『柳小島』
 日露戦争真っただ中に発表された『柳小島』では、巡査から「露西亜と戦争中であるんだぞ。国家の安危の分るゝ処ぢゃ。うむ、貴様どんな心得で、悠長な真似をするのぢゃい。」と詰問された魚釣の青年は「露西亜と戦をして居りや、…鯔(ぼら)を釣ってなんねえかね。」と、冷ややかに対応する。巡査は魚釣の青年を「国賊」と怒鳴りつける。
 村では日露戦争戦勝祈願がおこなわれているが、他方では貧乏な農民の稼ぎ手が徴兵され、貧困のどん底に突き落とされた家族の様子が描かれている。31歳の鏡花は戦争下で苦しむ人々の側に立ち、日清戦争時の「愛を引きさく戦争」から「生活を破壊する戦争」へと、より社会性の強い作品になっている。

晩年
 1937年6月、勅令280号で、帝国芸術院が発足し、晩年の泉鏡花も会員になっている。同年の文化勲章令で設置された文化勲章と一体の翼賛制度で、文化・芸術を天皇制の一角に組み込むための仕掛けである。戸坂潤は「帝国芸術院は…芸術の養老院ではあっても、必ずしも芸術の正常なアカデミーではない。 否、芸術のアカデミーではあっても、思想的な文化力を有つ機関では決してあり得ない」(『思想動員論』1937年9月)と書いている。島崎藤村、正宗白鳥、谷崎潤一郎は帝国芸術院会員となるよう推挙されたが辞退している。

(2)徳田秋声
 2018年に徳田秋声記念館で企画展「秋声の戦争」が催され、小林修さんが「戦時下の徳田秋声―日本文学報国会のことなど」という演題で講演をおこなった。記念館作成の「紹介文」と小林さんの「講演レジュメ」などを参考にして、秋声と戦争について概略を記すことにする。
 秋声にとっての戦争は日清戦争(22歳)、日露戦争(33歳)、欧州戦争(42歳)、満州事変(59歳)、盧溝橋事件・日中開戦(65歳)、日米開戦(69歳)と、総ての戦争を体験し、1943年71歳で亡くなっている。泉鏡花より1年早く生まれ、4年長く生きていた。

日清戦争時
 秋声は日清戦争直前の1893年に『ふゞき』で、落ちぶれた名家の弟は丁稚奉公に出され、妹と姉は花街に売られていく悲哀を描き、戦後の1896年の『薮かうじ』では部落差別を対象化し、あくまでも同情的態度で臨んでいる。
 同じ時期に、鏡花には『龍潭譚』(1896年)、『化鳥』(1897年)、『蛇くひ』、『山僧』(1898年)、『妖剣紀聞』(1920年)など、社会的差別を対象化した作品があるが、秋声と同じように同情的な内容である。1920年代の島田清次郎も『地上』で部落差別を扱っているが、全国水平社設立直前のこともあり、差別に立ち向かう被差別部落民の姿を描いている(後述)。

日露戦争時
 秋声が戦争を対象化するのは日露戦争以降である。1926年に、「戦争中は一寸(ちょっと)普通の小説ぢや売れないんだ。私なんかも仕方がないから、戦争小説見たやうな物を書いたことがある。」(「わが文壇生活の三十年」)と書いている。それは「春の月」(「文芸倶楽部」1904年4月号)で、「『父ちゃんのお膝で寝(ねん)ねしねえ。』と兼吉は横抱に臥(ねか)す。/『罪のねえもんだな。』/『此奴(こいつ)も又兵隊だ。其時分は、何所の国と戦をするだらう。』というくだりである。
 32歳の秋声は田山花袋や島崎藤村の影響を受けて、従軍記者になろうと準備をしていたが、友人の三島霜川に反対され、健康上も自信が持てなくて、思い止まったようだ。
 日露戦争後の1909年、文芸の保護と奨励を目的に文芸院設立構想が持ち上がったが、政府の真の狙いは、文芸の統制にあった。このとき、雑誌アンケートで、秋声は「わが国の文芸は今まで政府の保護を受けず、寧(むし)ろ迫害を受けながら発達してきた。政府が金を出しても文芸の奨励にならない。それより文芸趣味を国民の間に普及させることだ。文芸院などどうでもいいことだ」(「文章世界」1909年2月号)と批判的に受けとめていた。「言論統制」に危機感を持った文学者は同調せず、この計画は失敗に終わった。

満州事変後
 1934年に内務省が文芸統制のために「文芸懇話会」を設立し、その第1回会合において、秋声は「日本の文学は庶民階級の間から起り、庶民階級の手によつて今日まで発達して来たので、今頃政府から保護されると云はれても何だかをかしなものでその必要もない」と発言している。(広津和郎「德田さんの印象」1947年)
 1936年、武田麟太郎らは、雑誌から閉め出されていたプロレタリア作家の発表の場として『人民文庫』を発刊した。2月には、秋声も『人民文庫』の座談会に出席している。
 1936年10月に徳田秋声研究会を開いていたところに警察が踏み込み、無届け集会として、出席していた16人が連行されたが、3日ほどで釈放された。11月号掲載の平林彪吾「肉体の英雄」が検閲で12頁削除され、その後も各号で検閲にかかるなど、当局の監視が強まった。1937年以降も次々に発売禁止となり、各地で定期購読者が警察に呼び出された。
 治安維持法は猛威を振るい、盧溝橋事件後の1937年11月に「唯物論研究会」の岡邦雄、戸坂潤、服部之総、古在由重ら30余人が検挙され、同月『世界文化』の同人は治安維持法違反容疑で検挙され、12月には山川均ら460余人が逮捕され(第一次人民戦線事件)、内務省警保局は人民戦線派の執筆禁止を出版社に通告した。『人民文庫』は1938年1月号が発禁となり、終刊となった。

盧溝橋事件・日中開戦時
 1937年6月、「文芸懇話会」を「帝国芸術院」に衣替えし、秋声もひきつづきその会員となった。秋声は『月刊文章』(1937年9月号)で、「今度の北支事変(注:盧溝橋事件)は、戦争としてどこまで拡がって行くか、私達には予測はできない。世界戦のをり、マグドナルドは非戦論者だったが、国民から迫害を受けた。それで、戦争が始まった上は、できるだけ犠牲を少なくして、一日も早く平和の恢復するやうに善く戦はなければならないと言って、自身戦地へも行って見た。いかなる非戦論者でも、時と場合ではその主張に膠着している訳には行かない」(「戦争と文学」)と書き、秋声は祖国防衛・戦争支持にまわってしまった。
 それでも秋声は『改造』の9月号で、「巳之吉は何が何だか解らずに、プラットホームの群集の殺気立つてゐるのに、頭がぼつとしてゐた。プラットホームは、国旗の波と万歳の声とで、蒸し返されてゐた。…後ろから万歳の叫びが物凄く雪崩れて来たところで、巳子蔵も手をあげて万歳を叫んだ。『畜生、行けない奴は陽気でゐやがる。』巳之吉は顔の筋肉の痙攣(ひきつけ)るのを感じた。やがて列車が動き出した。」(「戦時風景」)と、出征風景を描いている。巳之吉は万歳を叫ぶ巳子蔵にたいして、「畜生、行けない奴は陽気でゐやがる」と、本心を吐露している。この部分は3年後(1940年)の単行本収録時には検閲にかかり伏せ字にされている。
 ここで、祖国防衛主義を批判した幸徳秋水の主張を見ておきたい。幸徳秋水は『平民新聞』(1904年3月)の社説で、「社会主義者の眼中には人種の別なく地域の別なく、国籍の別なし、諸君(注:ロシア人民)と我等(注:日本人民)とは同志也、兄弟也、姉妹也、断じて闘うべきの理有るなし、…然り愛国主義と軍国主義とは、諸君と我等と共通の敵也。」と提言している。すなわち、自国の戦争を支持したとき、反戦・非戦は空念仏になってしまうのであり、秋声もこの道に迷い込んでしまったのである。

日米開戦後
 秋声は1941年6月から、「縮図」を連載しはじめるが、検閲がひどくて、9月15日の80回目で中断した。同年12月、開戦直後の文学者愛国大会で秋声は「戦果についてだけは敬意を表するが、今だに戦争というものは疑問を持ってゐる」と述べた、と円地文子は「女の秘密」で書いている。
 1941年12月28日『都新聞』で、秋声は「多難な東亜共栄圏確立に、…東洋に絡みついてゐた毒素に向つて鋭利な切開のメスを揮つたのは、海軍の力であり、我々は8日のラジオ放送によつて、開戦の大詔とともに…神業かとおもひ老の涙がにじむのであつた」、「事変以来喧しくいはれた日本精神といふものゝ、真の姿を私は茲に見た」(小林修資料より孫引き)と、真珠湾攻撃を感動的に受けとめている。
 1942年2月1日『新潮』で、死の前年(70歳)の秋声は「対米英戦争の開始とともに、太平洋に於る我海軍の迅速果敢の行動と、すばらしいその成果を耳にした時には、…その感動も亦一入であった」、「わが海軍の精神と技術…これこそ真の日本精神の精髄だとも崇めるべきであり、戦争以外の総ての分野にわたつて、汎くこの精神が師表となることを祈らざるを得ない」と、日本精神を謳歌し、「私は日本の政治国民生活が、…不純の分子も未だ悉く清算されたとは言へないかも知れず」(小林修資料より孫引き)と反戦・非戦勢力に苦言を呈し、1942年5月に発足した「日本文学報国会」では、小説部会長に就いた。
 1943年11月18日、徳田秋声は日本の敗戦を見ることなく、永眠の途についた。日清戦争からアジア太平洋侵略戦争までの総ての戦争を体験した71年だった。

(3)鶴彬
 私がはじめて鶴彬を意識したのは1980年代で、北斗書房のYさんから、カウンターに平積みされている文庫本『評伝 反戦川柳人・鶴彬』(一叩人著1983年)を指して、「金沢の左翼が鶴彬も知らんのか」と、強引に薦められたときであった。しばらく立ち読みして、5冊購入して、友人に転売した。鶴彬と同じ高松町生まれで、北陸中日新聞社に勤務していたKさんにも手渡した。Kさんは、定年退職後、「鶴彬を顕彰する会」の中心メンバーとして活動し、『はばたき』の発行を精力的にこなし、鶴彬は多くの知るところとなった。
 鶴彬の青年期は日本がアジア太平洋侵略戦争に突き進む時代であり、年表的に略記すると次のようになる。
 1926年17歳の時に、「釈尊の 手をマルクスは かけめぐり」と宗教批判の川柳を詠み、18歳で、「高く積む 資本に迫る 蟻となれ」とマルクス主義に傾斜した。20歳で「軍神の 像の真下の 失業者」、「食堂が あっても食えぬ 失業者」と29年大恐慌下の失業者と心を一つにしている。
 1930年(21歳)に、金沢第七連隊に入営し、9月には七連隊赤化事件で逮捕された。1931年(22歳)に、懲役2年の判決を受けて、大阪衛戍監獄に収監された。満州事変が起きた年である。1933年(24歳)に満期出所し、原隊復帰し、12月に除隊し、活動を再開した。
 1934年(25歳)に、「目隠しされて 書かされてしまう □□(転向)書」と弾圧の厳しさを詠んでいるが、しかし鶴彬は転向を拒否し、「地下へくぐって 春へ、春への 導火線となろう」とたたかいを継続する。1936年(27歳)、「ざん壕で 読む妹を売る 手紙」を詠んで、徴兵で働き手を失った家族の窮状を詠うが、鶴彬はただ泣くだけの川柳人ではない。「枯れ芝よ 団結をして 春を待つ」と決して希望を捨てない。
 1937年(28歳)、鶴彬は「タマ除けを 生めよ殖やせよ 勲章をやろう」、「 高粱の 実りへ戦車と 靴の鋲」、そして最後の川柳「手と足を もいだ丸太に してかへし」と、盧溝橋事件から始まる中国侵略戦争を詠み、12月には、反戦川柳を発表した廉で検挙され、野方署に9カ月間留置され、1938年9月14日に、「蟻食を噛み殺したまま死んだ蟻」のように、非転向を貫き、壮絶な獄死を遂げたのである。29歳だった。

(4)中野重治
 中野重治は1902年に福井県で生まれ、1919年に金沢の第四高等学校に入学した。29歳満州事変、35歳盧溝橋事件、39歳日米開戦、43歳で敗戦を迎え、1979年77歳で亡くなった。中野重治は1926年(24歳)に日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)に参加し、1928年には全日本無産者芸術連盟(ナップ)や日本プロレタリア文化連盟(コップ)の結成にも参加している。1932年(30歳)に検挙されたが、1934年に転向を条件に出獄した。以後も中野は文学者として抵抗を継続し、時流批判を続けたため、1937年(35歳)に中條(宮本)百合子や戸坂潤らとともに執筆禁止の処分を受けている。
 『中野重治全集』第1巻を開くと、「夜明け前のさよなら」(1926年)があり、非合法下の活動家会議の緊張感が伝わってくる。久野収が「一字一字ノートに写した記憶がある」と書いているように、治安維持法下で苦闘していた人々の共通感覚だったのだろう。
 1970年代後半に、知人宅に一夜の宿を求めても、隣の部屋から夫婦のトゲトゲしい会話が漏れ聞こえ、翌朝そそくさといとまを告げた記憶が甦る。その頃、吉野せい作品集『洟をたらした神』(1974年)を読んだ。1935年の秋、二人連れの活動家が訪れ、荷物を2日間だけ預かってくれと頼み込むが、三野混沌はむげに断っている。そして何日か経って、特高が来て、三野混沌を連行していった。頼み込む活動家の切羽詰まった状況と、それを受け入れることができない三野混沌の状況は、痛いほど胸にしみた。
 「新聞をつくる人びとに」(1927年)、「雨の降る品川駅」(1929年)には、国境を越えた朝鮮人との連帯感がみなぎっている。願わくば、「まえ盾うしろ盾」は朝鮮人に依存するのではなく、中野重治こそが、日本人こそがその役を担わねばならないのだろう。
 1928年の短編小説「春さきの風」は犀星も絶賛している。3・15弾圧で、赤ん坊を抱えた女性が逮捕され、赤ん坊が病んでいても、ろくに医者に診せてもらえず、ついに留置場で泣き声が止む。女性は釈放されたが、良人はそのまま未決監に送られ、良人への手紙に「わたしらは侮辱のなかに生きています」としたためて、封を閉じている。ここには、まだ頑として転向を拒否する中野重治がいる。
 「いよいよ今日から」(1931年)、「今夜おれはおまえの寝息を聞いてやる」(1931年)には、弾圧に身構えた中野重治がいる。中野重治の詩は私の詩でもある。1968年春、万世橋の留置場で、隣の房からくぐもるような声でアリランが聞こえ、看守から「黙れ」と脅されても歌は止まらない。起訴され、東拘に送られ、「整列」、「番号」の号令がかかり、学生たちは「いち」、「に」、「さん」…「なな」、突然看守は「『なな』という数字はない、やり直し!」と。ふたたび、「いち」、「に」、「さん」…「しち」、そして私が「はち」と、蜂が刺すように叫んで、次につながり、入所の点呼は終わった。1930年代も、その40年後も変わらず、たたかう青年がいたのである。

(5)島田清次郎
 島田清次郎は1899年に生まれ、1930年に亡くなり、作家生活は1914年から25年までのわずか10年であり、その時期にはシベリア出兵があるが、大きな戦争を体験していない。島清の作品や随筆のなかに戦争に関連する記述を探してみた。

資本主義批判
 1916年から19年にかけての日記『早春』(1920年発行)では、宗教(暁烏敏)批判をおこなったうえで、1918年11月付で、米騒動について、「非文化的な騒乱や暴動」ではなく、「一般民衆運動が示した意外の実力と信念…選挙権拡張の準備をさせてゐる」と評価している。
 1920年(21歳)発行の創作ノート『閃光雑記』では、マルクスの剰余利潤説について述べており、資本論に目を通していた節が見られ、同年8月に、堺利彦や山川均が呼びかける日本社会主義同盟に参加したが、翌年5月には解散させられている。このように、島清は社会主義を以て自らの信条としていた。

排外主義批判
 1920年に公刊された『二つの道』では島清による国家社会主義批判が展開されている。「支那(ママ)のあの豊穣な大陸や南洋の諸島が必要」、「階級戦は…国家民族の消滅」と、民族の融和と階級闘争の放棄を主張する論争相手にたいして、島清は「資本家階級の一切の文明は…たたきつぶしても惜しくないニセ文明」と、日本資本主義をこそ打倒しなければならないと訴えている。
 『早春』では、1919年の3・1朝鮮独立運動直後に、島清は「(朝鮮人を)愛し、彼等を真に平等にあつかはなくてはならない」と書いているが、朝鮮併合への批判はなく、朝鮮独立運動への共感・支持も表明されていない。また、「私は…必然的に現在の国家や社会や世界やにぶつかるものを感じます。私にあっては、一種の民族主義的の主張は当然はねとばされます。…岩野(泡鳴)氏の日本主義なるものが…現代が生める一種の敵対的産物、もしくは現実弁護にしか思はれませぬ。」と、痛烈に排外主義を批判している。

部落差別批判
 島清の社会感覚として特筆すべきは、部落解放運動への熱烈な支持である。『地上』第2部では、子どもたちの間で展開される部落差別が描かれているが、第3部では一転して、「少なくともこの輿四太の目の黒いうちは俺等の同志三百万人の××××が、いざとなったら承知しない…その時この腕が物を云ふのだ。三百万の××が六千万の国民に代って物を言ふ」と、差別に立ち向かう部落民の姿を生き生きと描き、画然としている。(××は差別用語なので伏字にした)
 しかし、1925年の徳富蘇峰への手紙では、「水平社族」などと、たたかう部落民を罵倒しており、晩年の階級意識は後退している。

 島清が活動した時期は日清・日露戦争で成長した日本資本主義の矛盾が顕在化し、資本主義批判が普遍化してきた時代であるが、戦間期であり、戦争に関する直接的な記述はほとんどない。

(6)杉森久英
 杉森久英は1912年に生まれ、19歳で満州事変、25歳で盧溝橋事件、29歳で日米戦争を内地で体験しているが、戦前戦中の作品はない。杉森は1934年に大学国文科を卒業し、公立学校教員、中央公論社編集部を経て、大政翼賛会文化部で働いていたが、ここは国民総動員の一環として文化人・文化団体の活動を慫慂し、翼賛文化運動を推進する中軸的組織であった。
 戦後1953年の短篇小説『猿』が芥川賞候補になったのを機に作家生活を始め、『新潮』(1957年6月号)に「『三光』に抗議する」(注:『三光』神吉晴夫氏編)という7000字ほどの評論を投稿し、杉森久英の戦争観を披瀝している。

「『三光』に抗議する」
 「抑留されている日本人が、抑留している中国人民にむかって、自分の罪を謝するという、非常に特殊な形で書かれたものばかりである。」、「この本を読んでいるうちに、胸の底からこみあげてくるこの嫌悪感、いらだたしさ、そしてウサン臭さの感情」、「日本人によつて、日本人の暴虐は醜く描かれ、中国人の犠牲は美しく描かれていることに、僕の神経はこだわるのだ。」、「自分ならびに同胞の非行を、他国人の前に公然と暴き立て、悔悟し、謝罪するこの人たちのやり方を、平静な感情で見すごすことはできない。そこには何か、おそろしく不自然なものがある。」、「戦争そのものが本来残虐なものである。残虐はおたがい様でないのか。ある場合、平和な村が戦火にさらされ、良民被害を受け、作戦上の都合のため、食料が徴発され、家が焼かれることもないとは限らぬかもしれぬ。」、「民族間の敵意や対立が問題になっているとき、やたらに婦女暴行を持ち出してはいけないと信ずる」と、謝罪不必要論を全面的に展開している。

「戦場に捨てる命と金」
 もうひとつは、1993年7月13日付け『北國新聞』に投稿された杉森の「戦場に捨てる命と金」という1600字ほどの評論である。
 「戦場では、女性も食料や弾薬と同じく、必需品である。若さと血気に溢れ、人を殺すことを何とも思わず、自分自身の命さえ考えない若者にむかって、禁欲と節制を説いても無駄であろう。」、「(戦場で)男の捨てる金を、チャッカリ拾うのが女の仕事である。女たちはそんなのを集めて、国もとへ送金したり、帰ってから豪邸を建てたりする。」、「泣き叫ぶのを、容赦せず連行されたと言うが、ほんとかしらん。…そういう話しを信じて、救済だの補償だのと騒ぐのも、どんなものかと思う。」と。

戦争という魔物
 杉森は、二つの評論で、日本の侵略戦争と植民地支配によって引き起こされた被害を極小化し、加害責任をできる限り小さく見せかけ、アジア人女性を性奴隷にした事実を茶化し、笑い飛ばし、戦争はそんなものだと居直っているのである。
 戦争の真っただ中で、七転八倒して執筆活動をしていた鏡花、秋声、犀星、中野、鶴彬はそれぞれの道を歩んでおり、その人生は苦悩の塊であったが、杉森は戦後に作家活動を開始したころも、その終末期も、ついに自らも体験したはずの戦争という魔物を対象化することができなかったのである。

つづく

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