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【論考】承前 石川由縁の作家と戦争、とくに犀星の戦争詩について

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【論考】承前 石川由縁の作家と戦争、とくに犀星の戦争詩について

目次
はじめに
Ⅰ 概略:①泉鏡花/②徳田秋声/③鶴彬/④中野重治/⑤島田清次郎/⑥杉森久英
Ⅱ 犀星:動機/①随筆を対象化/②作家的原点/③プロレタリア文学への親和/④プロレタリア文学に別離/⑤政府高官との接触と躊躇/⑥追いつめられる犀星/⑦政府とメディアと作家/⑧戦後、戦争詩を削除
Ⅲ 戦争詩の政治的役割と私達

Ⅱ 犀星について

動機
 私は、もともと室生犀星の愛読者ではない。2年前から外来昆虫シタベニハゴロモについて調べていて、犀星の『動物詩集』(1943年、犀星54歳)の存在を知った。
 序詩には「生きものの/いのちをとらば/生きものはかなしかるらん。/生きものをかなしがらすな。/生きもののいのちをとるな。」とあり、戦争の真っただ中で、「(人を)殺すな」というメッセージが込められている。
 なかなかいいじゃないかと、読み進めていくと、「蛤のうた」があり、「蛤の背中を/とんとんたたくものがゐる/誰だとたづねると/浅蜊だといふ。/蛤と浅蜊は/兄弟のやうなものだらう。/蛤にだかれて/浅蜊は寝てゐます、/蛤の背中に海が怒つて/太平洋はいま戦争中だ。/そしていくさは/大勝利だ。」と。
 これは戦争詩か。蛤と浅蜊が仲良く抱き合っているところに、突然海が怒り出すって、海って誰だ。なぜ、そのあとに戦争がやってくるのだ。論理主義に慣れ親しんできた私には、意味不明、論理不在、理解不能の世界だ。
 それで、「犀星と戦争」をキーワードにして、インターネット検索すると、国立国会図書館デジタルコレクションに、詩集『美以久佐』(1943年7月発行)がヒットした。「美以久佐」とは何んだ? 聞いたことも、見たこともないフレーズだ。あれこれ考えると、「美いくさ」のようで、「美しい戦争」ではなく、「御戦(みいくさ)」であり、「天皇の戦争」という意味で、最上級の敬語で侵略戦争を詠っている。
 ページを繰り、目次を見ると、序詩(勝たせたまへ)、日本の歌(臣らの歌/十二月八日/マニラ陥落/日本の朝/怒濤/ふたたびその日/遠天/シンガポール陥落す)、みいくさ(勝たせたまへ/日本の歌/今年の春/夜半の文/女性大歌)など、詩35篇と短歌55首が収められている。
 私の知らない戦争詩人・犀星がそこにいた。解説も説明もいらない、単純明解な詩がそこにある。そのなかから、戦争詩5篇を末尾に紹介しよう。

(1)犀星の随筆を対象化
 犀星は1920年代から創作活動を始めており、その作品群を読めば、犀星の全体像を理解できるのだろうが、私にはそのような文学的素養がないので、1920年代半ばから敗戦までの随筆に頼ることにした。
 犀星は1936年の『薔薇の羮(あつもの)』(213頁)で、「随筆は作者の心境と身辺を描くための文学である。…それらの密集は厳然たる大なる文学でなければならぬ。」と書き、1937年の『駱駝行』の序文では、「私自身の新聞的記述に過ぎない随筆類は、もはや顧る必要さへないのである。」とも書いている。書いている時は、書きたい、書かねばならないという衝動に駆られ、時が過ぎればゴミ箱に入れたくなるのは、もの書きの共通する感情なのだろうが、いずれにしても、私には犀星の随筆群しか手がかりがなく、これらの随筆を通して、犀星が戦争詩にたどり着いた経緯を書こうと思う。
 犀星の随筆の多くは国立国会図書館デジタルコレクションにアップされており、『魚眠洞随筆』(1925年)/『庭を造る人』(1927年)/『天馬の脚』(1929年)/『庭と木』(1930年)/『茱萸(ぐみ)の酒』(1933年)/『文芸林泉』(1934年)/『慈眼山随筆』(1935年)/『復讐』(1935年)/『随筆文学』(1935年)/『印刷庭苑』(1936年)/『薔薇の羮』(1936年)/『駱駝行』(1937年)/『作家の手記』(1938年)/『あやめ文章』(1939年)/『一日も此君なかるべからず』(1940年)/『花霙』(1941年)/『泥雀の歌』(1942年)/『芭蕉襍記』(1942年)/『日本の庭』(1943年)などがある。

(2)犀星の作家的原点
 犀星は、「昔、新潮社から『トルストイ研究』といふ薄かったが小気味よい雑誌が出てゐたころ、僕はトルストイの小説を片っ端から読み耽ってゐた。…ドストエフスキーの小説を自然に耽読するやうになった。この小説は僕に人道主義やらなにやら分からんが、妙な文学のなかにのみあるやうな宗教心をあふってくれ、僕はさういふ傾向の詩ばかり書いて暮らしていた。」(1934年『文芸林泉』517頁)、「僕の『愛の詩集』(1918年・29歳)はドストエフスキーを読んでゐた時分で、その影響を受けてゐた。人道主義のやうな訳の分からぬものが僕をつかまへてゐて、動かさなかったのである。」(1935年『慈眼山随筆』119頁)、「毎日トルストイとドストエフスキーを読んで、新しい感激に浸ってゐた。だから『愛の詩集』と『第二愛の詩集』にはトルストイとドストエフスキーの影響がにじみでてゐるのは当然。」(1940年『一日も此君なかるべからず』288頁)などと書いている。
 これらの随筆は1917・8年28・9歳ころの犀星自身を振り返って評しており、犀星の作家的原点はトルストイやドストエフスキーの人道主義なのであろう。また、1917年ロシア革命も影響を与えていたのではないだろうか。
 トルストイやドストエフスキーに熱中していた初期の犀星は、1934・5年時点で「人道主義のやうな訳の分からぬもの」と、人道主義に懐疑的になり始めているが、1942年戦争下では、「当時の私の詩集が妙に人道主義めいたいやらしい傾向を帯びてゐるのも、残念ながらロシア文学の影響」(『泥雀の歌』186頁)と、言い訳がましく述べ、詩人犀星の原点ともいえる人道主義に唾を吐きかけている。

(3)プロレタリア文学への親和
 日本では、1920年代からプロレタリア文学が興きてくる。犀星は『天馬の脚』(1929年)で、「大正三年(1914年)に出版されたこの詩集(注:「太陽の子」)の中には、今のプロレタリア詩集派の先駆的韻律と気魄とを同時に持ち合わせ、激しい一ト筋の青年福士幸次朗の炎は全巻に余燼なく燃え上がってゐた。詩は[一人の男に知恵をあたへ、一人の男に黄金のかたなをあたへ]の呼びかけから書き出して、左の四行の適確な、驚くべき全詩情的な記録を絶した力勁さで終ってゐる。[この男に声をあたへ/この男をゆりさまし/この男に閃きをあたへ/この男を立たしめよ]」(107頁)と、福士幸次朗を高く評価している。しかし、1932年に福士幸次朗らは「日本ファシズム連盟」を結成し、極右勢力に合流している。
 また、『薔薇の羮(あつもの)』(1936年)中の「人物と批評」では、「中野重治氏の小説『春さきの風』を読み、啻(ただ)に今月中の佳作ばかりでなく、最近プロレタリア文芸の作家のうちでも、最も秀れたものであることを感じた。」(291頁)と、書いているが、『春さきの風』は1928年3・15弾圧後の8月に執筆された。その冒頭は「三月十五日につかまった人々の中に一人の赤ん坊がゐた」からはじまり、「わたし等は侮辱の中に生きてゐます」で締めくくられている。「人物と批評」は1930・31年ごろの執筆であり、この時点ではまだ、犀星はプロレタリア文学とは親和的である。
 同時期に、金沢に帰郷した犀星は「この茶房に来る途中、金沢にも始めてメーデーがあったらしく、電柱に貼られたポスターが剥奪されながらも、糊強く電柱に食ひ込んでゐた。…故郷の町にも、時代の運動が遅れ馳せながら来たかと思ふと頼母しくも壮烈さを感じずにはゐられなかった。」(同書7頁)と、1929年の第1回金沢メーデーに快哉を叫んでいる。300人の労働者が立ちあがり、鶴彬らはナップ(全日本無産者芸術連盟)と染め上げた法被(はっぴ)を着て参加した。1930年は600人、31年は400人、32年はメーデーが非合法化され、それでも40人が立ち上がった。
 『天馬の脚』(1929年)では、「今度の選挙(注:1928年、第16回衆議院議員選挙)で、自分も労農党のM氏に一票を投じた。政治には興味を持たない自分だったが、何か旺んな情熱を感じその情熱に触れることは好ましい愉快さであった。菊池寛、藤森成吉二氏の落選には…何か腹立たしかった。」(168頁)と、労農党支持を鮮明にしているが、他方では「マルクスやレーニンのはげ頭」(『薔薇の羮』51頁)とこき下ろしており、社会主義そのものには拒否感を持っていたのだろう。
 このように、1930年前後の犀星はプロレタリア文学と労働者階級のたたかいには、強いシンパシーを感じていたのである。

(4)プロレタリア文学に別離
 しかし、治安維持法と特別高等警察による社会主者への弾圧は年々厳しくなり、1933年2月20日には小林多喜二が築地警察署で獄死した。共産党員の〈転向〉が続出し、プロレタリア文学も徐々に衰退していった。1932年に「労農芸術家連盟」は解散し、1934年2月には、日本プロレタリア作家同盟(ナップ)も解散を表明した。機を見て敏なのだろうか、犀星はプロレタリア文学にたいして、手のひらを返すように冷たく接するようになる。
 『文芸林泉』(1934年)では、犀星は「窪川稲子(注:佐多稲子)さんなどはかういふ気持ちや作風を人がらの上に多分もつ人であるが、近来こじつけて左翼的な作品にみんなあるだけを持って行かうとしてゐる」(82頁)とプロレタリア作家に嫌悪感をあらわにしている。
 『慈眼山随筆』(1935年)では、「人道主義のやうな訳の分からぬものが僕をつかまへてゐて、動かさなかった」(66頁)と過去形で書き、「転向作家は転向したければすればいいのであって、人間のすることで厭なことがあれば止めればいい」(同書106頁)と、権力の暴政と向きあわず、権力の懐に這入る準備をしている。そして、「文学は正義につくか汚辱につくか。二つしか道がない」(同書152頁)と、みずからが「汚辱につく」ことを表明している。
 『印刷庭苑 犀星随筆集』(1936年)でも、「島木健作の『一過程』も左翼の空気を手堅く描出し、芹沢治良氏も『風逃』でやはりさういう色彩を出し、細田源吉氏の『長雨』も留置場のことを書いてゐられた…。私はかういふ留置場や嫌疑や策動的生活がいまは全きまでに過ぎ去った事がらになつてゐるのを、何故に掘り返すのか、それが芸術としての永遠不抜なものになるのか知らと考えながら読んだ。ただ、私は私の心の痛みだけを感じたに過ぎなかった。細田源吉氏のやうな温厚な一作家にも、かういう悲しい生活の加へられてあつた事件をいたくも身につまされたのである。同時にかういふ単に人の心を痛ましめるだけで、芸術上の昂揚も喜びも感じない作品を読んだことが決して私の幸福でないやうに思はれた。」(243頁)と、プロレタリア文学にたいして、対立的な評価を開始している。
 『駱駝行』(1937年9月)では、犀星は「『雑踏』(中央公論1937年1月)の中條百合子氏は長篇の発端とされてゐるが、左翼後期のもので、私には材料それ自身が向かないものである。左翼くさいものを見ると、活字面を見るだけで、もふ飽きてしまふのである。片岡鉄兵氏の『摩擦』も左翼ものでその愛欲の一挿話が書かれてゐるが、左翼くさい故を以て又私に向かざるものであった。今日かくのごとき左翼くさいものがこの時代と何の関係のない出流れであることが、それらの小説を見ると痛烈にさう感じられた。」(222頁)と、1937年の春ごろには、プロレタリア文学との訣別の道を選択したのである。それは、次節で述べるように、1936年夏の政府高官との会見が大きく影響しているのではないだろうか。

(5)政府高官との接触と躊躇
 1937年7月7日の中国侵略突入1年前の1936年夏、犀星は近衛文麿、永井柳太郎、鳩山一郎ら政府高官と会見している。罠に嵌まったのである。
 『駱駝行』(1937年9月)では、「(芸術院について)文学と国家とを結び付けて行くべきである。」(140頁)、「昨夏(1936年)、機会があって伊沢多喜男氏をはじめ近衛文麿氏、永井柳太郎氏、鳩山一郎氏などと云ふ、政界の巨頭達と一夕会見を俱にした。」(149頁)、「大臣もまた一国の文芸家とともに国家と文学といふ問題の為にも、また文運を祝福するためにも、度々会見すべきではなかろうかと思はれた。」(同154頁)、「文学が国家的に働きかけて貰ひ、漠然たる意味ではあるが、善きを善くすべき人生の諸現象に就て、最も深き力を示されたいといふ伊沢さんの意見であった。私はこの伊沢さんの意見をよしとして…。」(同158頁)、「政治家と我々の接触は文学の広さをひろげるし、また文学を仲間以外にひろげることも出来るからである。少くとも文学現象は最高文化であるのであるから、政治の高さとともにもうそろそろ握手をして、大臣も我々の友人としなければならないと考へてゐる。」(同159頁)、「文学といふものにも、文学としての使命や目的がある程、文学の大きさや深さがあるのではないかと思はれ出した。」(同162頁)、「文学を利用すべき機関に必要あれば我々は力を藉し、また文学を利用してよいやうなことがらにも、我々は碌でもない潔癖を取捨てて結びつきたいのである。」(同163頁)などと、得々とと書き連ね、日中戦争前夜(1936年夏)の政府との蜜月を誇示している。
 そして、犀星は「私は哈爾浜(ハルピン)かチチハル及びそれらの地方を氷雪の融ける季節を待ち受けて出掛けることにしてゐる。」(同165頁)、と侵略前夜の満州(中国東北部)視察旅行を計画するのである。

断筆か順応か
 1937年春から満州に出かけた犀星は、後年「私は先年満州に赴いた時、何らかの意味に於て日本を新しく考へ、そして国のためになるやうな小説を書きたい願ひを持って行ったのである。」(1940年『一日も此君なかるべからず』172頁)と、満州訪問の意図を述べている。更に、犀星は「戦場を永遠に記録するために文学者が団結してその何人かをおくるのもいいし、自ら起って調べるのもいいであらう。」と、文学者に戦場へ行くことを勧めている。
 しかし、犀星は続けて、「だが、私はさういふがらにないことに出しゃばりたくない。」(同書172頁)、「かかる戦時下にあっては、私の心をしめ付けてゐるものは、ふしぎにも私自身の文学へのしめ付けであり、自戒の厳しさの中にあることである。…私自身の文学はどう変りようがなくとも、その文学精神にぴりっとした今までに見られないものをひと筋打徹したい願いを持ち…。戦争文学はそれぞれ現地の作家にまかして置き、…私は私流に一そうみがくことを怠らなければいい」(同書186頁)と、犀星自身は戦争詩人として最前線に立つことに躊躇しているのである。
 そして、犀星は「作家は書かずにゐなければならず、書けないのである」(186頁)とか、「全く空虚の広さの中で生きるより外はない」(194頁)などと、愚痴りながら、他方では「今後もはや詩集を上梓することはあるまい」(288頁)と断筆の決意すらしているのである。1937年中国侵略戦争突入の日から、「断筆か、順応か」をせまられ、犀星の心の晴れる日はなかったであろう。

(6)追いつめられる犀星
 1937年から始まった中国侵略戦争が長期化し、政府は文学者の戦地動員を働きかけ、「著作法によっても教科書に採用される詩及び文学作品は、改竄されることは勿論、それに原稿料を支払はなくてもいゝことになってゐる。」(1938年『作家の手記』125頁)という、戦時規制が強化された。犀星は、文学者にとって「いのち」の否定ともいえる「詩及び文学作品の改竄」さえ容認しなければならない状況に追い込まれたのである。
 明治憲法下の表現の自由は法律の範囲内とされ、年出版条例(1869年)、新聞紙発行条目(1873年)、讒謗律(1875年)、新聞紙条例(1875年)、出版法(1893年)、新聞紙法(1909年)、不穏文書臨時取締法(1936年)、新聞紙等掲載制限令(1941年)、言論・出版・集会・結社等臨時取締法(1941年)などが制定され、表現活動が著しく規制されていた。
 出版法では、図書を発行するときは発行3日前に内務省に製本2部納本が義務付けられた。1934年の改正では、第26条に「皇室ノ尊厳ヲ冒涜」が追加され、皇室の尊厳を冒涜し、政体を変改しその他公安風俗を害するものは発売頒布を禁止された。
 新聞紙法では、新聞社は、発行ごとに内務省、裁判所等に納本しなければならないとされていた。新聞紙法に基づく検閲は、内務省、情報局、検事局、警視庁検閲課、府庁特高課などがおこない、さらに必要に応じて郵便検閲、無線電信検閲、戒厳検閲、軍検閲、憲兵検閲などがおこなわれていた。
 犀星が言う「詩及び文学作品の改竄」が、どの法律のどの条項に規定されているのか不明だが、これらの言論統制法が犀星の表現活動を萎縮させていたに違いない。
温かい乳ぶさ
 そして、犀星は1939年の『あやめ文章』で、「事変以来、支那人は可愛相に思はれても誰も指一本ささず寧ろ同情されてゐる程であり、日本人は大国の胸をひろげるやうになり、敵国の善き民を憎む者が一人もゐない。」(73頁)、「大同陥落では石仏寺が無事であったことを知り、我が軍の古美術を劬(いたわる)気概にいたくも打たれた。」(同書91頁)、「東洋では、…何時も正義の前には戦争をするのである。」(同書101頁)などと書き散らし、敵国(中国)を憎まず、「大国日本」の風格を誇示し、「古美術」を保護する文化的軍隊として描き、1937年から始まった中国侵略戦争を「正義の聖戦」であるかのように、屁理屈を捏ねながら、日本軍讃美にのめり込んでいったのである。
 そして、1941年パールハーバーの直前、犀星は「文学ばかりではなく、事変は一さい改変と䔥整(しゅくせい)をあたへ、日本は新しい心とその装ひとをその両面からととのへて行った、これは一さいを良くしてかかる最初の声であり、とうに此処まで来るやうに過去からだんだん積みかさねられて来たものだった。かういふときにこそ文学の温かい乳ぶさを人びとにおくらねばなぬのだ。」(1942年『泥雀の歌』148頁)と、犀星は戦争詩という「温かい乳ぶさ」を少国民に含ませることを自らの使命として確認するのである。
 『泥雀の歌』の出版を準備してきた犀星の眼の前に、ついに、「この稿を終えた時、昭和十六年十二月八日、大東亜戦争が開かれた。そしてまたたく間に勝利は相ついで臻(いた)った。南方へ、シンガポールへ、怒濤は艦列をつくり迫りに迫った。」(同書292頁)という、日米開戦の報せが飛び込んできたのである。
 犀星は1942年に発足した日本文学報国会・小説部会の評議員、詩部会の会員となっており、文学界の重鎮として、「戦争文学はそれぞれ現地の作家にまかして置き」とか「私は私流に」などとは言えない立場にあったのである。

(7)政府とメディアと作家
 日米開戦1カ月後の1942年1月ごろから、犀星は「臣らの歌」、「十二月八日」、「マニラ陥落」、「日本の歌」、「怒濤」、「ふたゝびその日」、「遠天」、「シンガポール陥落す」を次々と発表し、6月の『つくし日記』にまとめて発刊した。さらに、上記の以外の「勝たせたまへ」、「今年の春」、「日本の朝」、「夜半の文」、「女性大歌」などを加えて、詩集『美以久佐』(1943年)を発行した。
 『つくし日記』は閲覧の機会がなく、国立国会図書館デジタルコレクションの『美以久佐』に収録された戦争詩を見ると、「序詩」「日本の歌」「みいくさ」の三部構成になっており、「序詩」には、「勝たせたまへ」一篇だけが掲載され、詩集全体の基調を示し、「みいくさ」の冒頭にもふたたび掲載され、犀星の戦勝にかける強い意志が表れている。
  「みいくさは勝たせたまへ/つはものにつつがなかれ/みいくさは勝たせたまへ/もろ人はみないのりたまへ/みいくさは勝たせたまへ/食ふべくは芋はふとり/銃後ゆたかなれば/みいくさびとよ安らかなれ/みいくさは勝たせたまへ」
 上田正行さんの「犀星の戦争詩を考える」によれば、武蔵野館で開催された翼賛会主催の映画の休憩時間に、「マニラ陥落」(1942年1月)の詩朗読がおこなわれ、これを聞いた犀星は「詩による戦争といふものの響きがはるかに音楽などと違った、肺腑を突き刺すような急激の効果のあることを知った」(「詩歌小説」1942年2月)と書いている。犀星の詩は映画館やラジオから流され、全国の若者たちを戦場に送るべく、激しく心を揺さぶっていたのであろう。
事前制作の予定稿
 シンガポールのイギリス軍降伏は1942年2月15日であるが、犀星の「シンガポール陥落す」は同年2月3日の「朝日新聞」に掲載された。犀星は事前に何らかの要請(圧力)を受けて、詠んだのであろうと、伊藤信吉さんは推測している。中野重治も「戦争の五年間」(1967年)で、「私(注:犀星)はシンガポールが陥落したら、その陥落の詩を書くべく前からたのまれてゐて、その日のうちに書き上げなければならなかった」と書いている。
 高村光太郎も、「シンガポール陥落」で「シンガポールが陥ちた/彼等の扇の要が切れた/大英帝国がばらばらになった/シンガポールが陥ちた/つひに日本が大東亜をとりかへした(以下略)」と詠んでいるが、これも2月12日作・放送となっており、事前制作=予定稿である。
 このように、政府とメディアと作家が一体となって、戦勝を謳歌し、青年を戦場に送るべき体制を作っていたのであろう。

国内階級問題を対外転嫁
 犀星の「マニラ陥落」では、1941年12月8日の真珠湾攻撃と同時に東南アジア侵略に踏み込み、軍靴がグアム、ウエーキ、香港、マレー、ボルネオ、シンガポール、マニラへと、踏みにじっていくことに、犀星は快哉を叫んでいる。
 ところが、それに続くフレーズが腑におちない。マニラ(フィリピン)が犀星の祖母を搾取していたから、マニラに日の丸を立てることが「祖母や母への搾取」にたいする復讐だという。
 「紵麻(カラムシ)」の歴史は古い。魏志倭人伝(3世紀末)には「紵麻」という記述があり、日本では古来から麻を使って紐や衣服を作っていた。犀星の祖母の世代の女性は農作業の傍ら日本産の麻を使って布を織り、衣類を縫い、農作業用の縄を綯(な)っていたのであろう。その苦労の多い祖母たちの作業を見ていた犀星は、農村の悲惨は農村の悲惨として詠み、その責任追及の相手は、自国政府であり、外に転嫁べきではないだろう。
 マニラ麻はアバカ(abaca)とも呼ばれ、葉鞘(ようしよう)から繊維を採るために栽培されるバショウ科の多年草である。硬質天然繊維で繊維が長く、強く、船舶用ロープに最適なので、諸列強は奪い合った。1900年代にはミンダナオ島南部ダバオ市で日本農場が開かれ、マニラ麻の栽培が始まった。軍需産業と位置づけられ、日本から多数が移民し(最大時19000人)、地元住民を使役し、日本に輸入(略奪)していたのである。
八田與一の場合
 台湾の嘉南大圳(ダム)建設の功績で、「石川県の偉人」と言われる人に、犀星と同年代の八田與一(1886~1942年)がいる。日米開戦直後の12月25日には「我等の希望せる戦が来ました。…日本は朝鮮、シベリアを領土とし、満州国、蒙古国、北支那に根を張らねばなりません。…東亜連盟の盟主は第一日本とします」(『水明り』44P)などと書いている。
 その八田與一は、1942年に大洋丸でフィリピンに向かい、途中で米軍の攻撃で沈没し、命を落としたのであるが、その渡航目的はフィリピンの水田・稲作を潰して、軍需品としての綿花を作付けするためであった。そこにはフィリピン住民の生活のことなど、頭の片隅にもなく、あくまでも日本国家・資本に忠実な技術官僚として、日本軍占領地に活躍の場を求めていたのである。
 このように、フィリピンにおけるマニラ麻栽培も、綿花栽培も、いずれも日本の戦争と結びついており、犀星の認識は本末転倒の認識である。

(8)戦後、戦争詩を削除
 犀星が戦時に、戦争詩人として活動したことは、単に犀星個人の問題ではなく、犀星をとりまく戦争の問題である。敗戦後の犀星が「強いられた」と言うならば、「強いた者」は誰なのかを明らかにし、戦中の戦争詩が果たした役割を主体的に認識・反省すべきであろうが、驚くべきことに犀星自身が編集した『全詩集』から戦争詩を排除してしまったのである。
 1962年『室生犀星全詩集』の解説で、犀星自身が「本書に収録の戦争雰囲気のある詩はこれを悉く除外した。後年の史実に拠るためという再考もあったが、詩全集の清潔を慮ったのである。この戦争中は詩も制圧のもとに作られ、今日、これらの詩を削除することは心のにごりを見たくないからである。」と述べ、『全詩集』から「勝たせたまへ」「臣らの歌」「十二月八日」「マニラ陥落」「日本の朝」「怒濤」「ふたたびその日」「遠天」「シンガポール陥落す」「日本の歌」「今年の春」「夜半の文」「女性大歌」の戦争詩をことごとく削除した。他方高村光太郎の詩集では、戦争詩を全部収録している。
 削除の理由は、「心の濁りを見たくない」からだというが、みずからが戦争政策に迎合し、戦争を賛美し、若者たちを戦場に追いやった自身を「(圧政による)心の濁り」というなら、その「心の濁り」を強制した者(政府)にたいして、ものを言って然るべきではないか。犀星のなかに、あたかも「心の濁り」がなかったかのように、消去してしまうことは、あまりにも無責任・不誠実な態度ではないだろうか。
暁烏敏の場合
 戦後の全集からの削除といえば、暁烏敏(1887~1954年)の『皇道・神道・仏道・臣道』(1937年)がある。日中戦争前年の1936年におこなった説教の講演録であり、「今日の日本臣民は子供をお国の役に立つように、天皇陛下の御用をつとめるように念願して育てにゃならんのであります。…日本の臣民は天皇陛下の家の子供として、天皇陛下の御用にたち、そしてお国のお役にたてさしていただくということは、役人ばかりでない、百姓でも、町人でも、すべてその心得がなくてはならんのであります」と天皇への忠誠を要求している。
 もともと1910年代の暁烏は真宗が近代的宗教になるためには、封建的倫理を捨てねばならないと呼びかける高光大船や藤原鉄乗らに合流し、ロシア革命を讃え、米騒動や労働運動を支持し、朝鮮植民地支配に異を唱えていたのである。しかし、その後の暁烏は国家主義に転じて、前述のような発言にいたるのである。
 ところが、戦後の暁烏はもう一回転じて、「人が人(注:天皇)のために命を捧げるということは要らんのであります」(1946年『仏教思想とデモクラシー』)と述べている。戦後『暁烏敏全集』がまとめられたが、戦時体制に多少批判的な内容が含まれている『大東亜新秩序建設の根本』(1942年)や『大御心を仰ぎまつる』(1943年)は収録されているが、負の紋章である『皇道・神道・仏道・臣道』は目録にさえ載せられず、全集は、戦中の暁烏が戦争に批判的であったかのように編集されている。

Ⅲ 戦争詩の政治的役割と私たち

 戦後、犀星の戦争詩については、必ずしも多くの評論がある訳ではない。批評する側も、戦争との関係では無傷ではなく、傷を抱えながら、犀星をいたわり、戦争と表現者の関係を極めようとするものである。上田正行さんの「犀星の戦争詩を考える」(2018年)に引用されている作家のなかからいくつか孫引きさせていただこう。
 中野重治は「戦争の夢魔と文学・生活とのたたかいの犀星における全像は手軽には描けない。しかしこの時期に、短い夢魔期を通過することによって犀星が一歩ないし数歩進んだこと、その可能性を胎んできたことは争えない」(1968年「戦争の五年間」)と語り、戦争詩批判は緩く、犀星を受容している。
 富岡多恵子は1982年12月の『室生犀星』(ちくま学芸文庫)のなかで、「犀星が、そこでは『インテリ』ではなく『庶民』だったから」と、文化戦線の先頭で旗を振った犀星を一般市民のように格下げして、その責任を無化しようとしている。そして、富岡は「戦争の時代には、詩人は『国策』に奉仕する宣伝隊、扇動家としてしか期待されなかった」と、犀星を国策(国家)の被害者としての側面だけで捉えようとしている。
 文学者であろうが誰であろうが、政治に係わった人には政治的責任が発生するのは当然であり、昭和天皇が戦争責任を問われて、「私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりません」と答えて、責任を回避したように、政治に係わった文学者が沈黙の世界に逃げ込んでいい訳がない。前線の将校は多くて数千の兵士を左右するに過ぎないが、戦争詩人は1億の日本人民に出征の号令をかけ、その政治的影響と責任の大きさは比肩出来ないという事実を押さえておくべきであろう。
負の「文化遺産」に
 上田正行さんは、『魚眼洞通信』7号で、戦争詩を「戦争という特殊な状況から生み出した文化的遺産」(2018年)と受けとめて、「今後の歴史の教訓としていくしかない」と話している。私も同感であり、したがって「犀星の戦争詩×アジア太平洋侵略戦争」を「文化遺産」として、曖昧さなく明らかにし、何時でも、誰でもが学べるようにすべきであろう。
 はじめて犀星の戦争詩に触れたとき、私は犀星への驚きでいっぱいであったが、論考の過程で、青年期の人道主義、プロレタリア文学への親和から拒絶へ、そして戦争詩人へと転換していく犀星の姿が走馬燈のように現れてきた。1940年の「もはや詩集を上梓しない」という犀星の言葉はわずか1年後のパールハーバーで棚上げにされた。この変わり身の早さは犀星の体制順応型の処世術なのか、恐怖から来る迎合なのか、いずれにしても、戦争がもたらした厭うべき現実であり、だからこそ戦争詩を負の「文化遺産」として記憶しなければならない。
 劇場で、ラジオで、青年たちの心を激しく揺さぶったように、「臣らの歌」を、「十二月八日」を、「マニラ陥落」を、戦争の歴史と重ね合わせながら、声をあげて読(朗読)みたいと思う。

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