『渡良瀬川(足尾鉱毒事件の記録 田中正造伝)』を読む
昨年9月に新版『渡良瀬川(足尾鉱毒事件の記録 田中正造伝)』(大鹿卓著1941年)が発行された。末尾に宇井純の解説が添えられており、年末年始の課題として読んだ。1970年代半ば、内灘権現森への金沢火力発電所や能登(志賀)原発に取り組んでいるさなかに、荒畑寒村の『谷中村滅亡史』(1909年発行・発禁、1963年復刻)を読み、激しく心を揺さぶられたことを覚えている。
足尾銅山鉱毒事件の概略
東京の北東約150キロ、渡良瀬川上流にある足尾銅山は幕末から休山していたが、古河市兵衛が買収し、1877(M10)年に採鉱が再開された。銅鉱山から大量の鉱毒が流出し、渡良瀬川沿岸の農村は死の荒野と化した。
銅山操業停止を求める近代日本最初の農民闘争がはじまり、その先頭に田中正造がいた。本書は1901年天皇直訴事件まで扱っているが、その後洪水防止を口実に、谷中村を遊水池として水没させ、踏みとどまる農民に士地収用法を適用し、たたかいは終結させられた。
時代背景
当時は資本主義の勃興期であり、1900年の工場労働者数は紡績23.7万人、鉱山14万人、機械器具2.9万人、官営軍需工場3.6万人程度であり、労働者階級の未形成の段階であろう(1907年には足尾鉱山の鉱夫3600人が賃上げと労働条件の改善を要求し、軍隊の出動で鎮圧された。)。また日清・日露戦争の時代であり、電気通信などの工業原料として、銅は最も重要な金属原料であり、「勝利を導いたものは足尾の銅」といわれていた。今日でいえば「鉄は国家なり」の位置を持っていた。
「天皇賛美の農民運動」とか「労働者との連帯がない」などと、否定的に評価されている。確かに、田中正造は「わが国はこの国土と皇室と国民が同時にできたもので、国土は日本の骨であって、国民はその肉であり血である。皇室は頭脳であり心臓である」(139p)と語り、天皇制の呪縛下にあった。
政府と議会に絶望した田中正造が天皇直訴で解決を図ろうとしたが、天皇は「田中はただ場所を間違えたのだ」と、直訴を無視した。田中正造の期待は粉々に打ち砕かれ、政府は従前以上の強硬手段で農民闘争を鎮圧した(谷中村)。
しかし、晩年の田中正造は「民衆の権利は権力にまで高められるべき」「一生の誤りは人民の教育に意を用いなかった点」と語り、大衆集会をくりかえし組織していた。また、社会主義者幸徳秋水に直訴状のチェックを依頼しているように、田中正造の思想には変化が見られる。このたたかいの中から、河上肇、石川啄木、幸徳秋水、片山潜、荒畑寒村などが生まれている。
足尾銅山と福島原発
政府は「鉱毒除防命令(1897年)」を出しているが、それは絶対に鉱山をつぶさないことが前提であった。人民よりも企業を優先する政府の姿勢は、今日の福島原発事故に対する政府にも見られる。
民主党政権は東電をつぶさずに支援する枠組みとして原子力損害賠償支援機構を設置した(2011.9)。原発再稼働や原発輸出を進めるための「事故終息宣言」を出した(2011.12)。規制委員会は「新規制基準」を打ち出したが、住民の被曝量の制限値を採用しなかった(2013.7)。規制委員会は「福島原発事故収束が最優先」から、「柏崎刈羽再稼働審査」へと転換した(2013.11)。規制委員会は被ばく線量の数値が低くなる個人線量計を採用すると発表した(2013.11)。安倍政権は「原発ゼロ目標」をおろし、「重要なベース電源」と明記し、原発再稼働や原発輸出に向かっている(2013.12)。
政府も原子力規制委員会も被害者住民のためにあるのではなく、あくまでも東電資本(原子力産業も)を守るために働いている。130年前の政府と足尾銅山との関係とまったく同じなのだ。
新しい酒
「一朝の大事業(足尾銅山)を停止せしめたとなったらどういう結果になるか、国家は巨額の損失を被ることになる」(58p)と被害住民を恫喝した。田中正造は答えた、「亡国に至るを知らざればこれすなわち亡国なり、民を殺すは国家を殺すなり、法を蔑するは国家を蔑するなり」と。
私たちの回答は原発(核兵器)と人間(自然)は非和解であり、原発(核兵器)を必要とする国家(資本主義)を打倒する以外にないということだ。腐った酒は捨てねばならない。そして新しい酒には新しい革袋を必要としている。
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『足尾から来た女』(2014年1月18日、25日 NHK総合 21:00 - 22:13)