20230115 湯浅治男さんも遠くへ行った
去る1月13日に湯浅治男さんが亡くなったという訃報に接した。最後にお目にかかったのは昨年3月の判決の日だった。湯浅さんから「遺言だ」といって渡された1枚の紙も、「だらなこと言っとるな」と一蹴して、その紙も紛失してしまった。その後、11月に爆音訴訟原告団解団集会に参加したとき、必ず会えると思っていた湯浅さんの姿がなく、「もしや」と思っていたら、この訃報である。
私は10年間、湯浅さんの間近で、うるささ指数90コンターで暮らしていたから、湯浅さんの遺言は紙に書かなくともいい、1975年第1次提訴から47年の軌跡こそが「遺言」である。
写真は1999年9月の正光寺での爆音訴訟現地検証で写したもので、たたかう猛者たちとともに踏ん張っている。あの世で、目を光らせ、私たちを叱咤激励してください。
2023年1月15日
1999年9月 小松基地爆音訴訟現地検証(正光寺境内)
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「平和憲法を道標に、運動を進めよう」 湯浅治男
昭和五〇(一九七五年)年に提訴された、いわゆるファントム裁判は、その後の第二次の裁判から第三次、四次提訴へと引き継がれ、それも一審判決を経て、高裁での審理が始まっています。
この間すでに四半世紀の時間が経過しております。振り返って見ますと、当初一二名であった原告は現在一七〇〇名以上の原告という大きな運動となっております。同時に、小松で全国初に声を上げたこの闘いは、その後米軍横田基地、厚木基地、さらには極東最大といわれる米軍沖縄基地での運動へと発展し、今や原告数は数万人に達し、この運動を支援し、連帯する各界各層の人は数十万人、百万人にもなろうかという、かつて例を見ない具体的でねぼり強い運動に発展しております。
更にそれだけではなく、この運動は全国各地、各種の公害に苦しむ多くの人たちにも勇気を与え、環境を守り、人権確立を求める運動とも連帯し、憲法を守り、憲法を活かす要求とも一体となっております。
長期にわたるこれらの運動は相互に補完しつつ、深刻な公害の実態を余すところなく、白日のもとにさらし出し、社会のあり方を問う運動になっており、同時に最大の争点である自衛隊の実態の持つ違憲性、非法制、そして被告国の主張の矛盾をもますます明らかにしつつ、二一世紀に向かっての人類の指針を示す役割を果たしております。
私は被告国の主張の矛盾と狼狽の根本的な原因は、国による最初のボタンのかけ違いにあり、そのことを国民の目からそらせ続けてきた歴代政権にこそあると思います。
最近、元防衛庁長官の久間章氏が言いました。「日本は米国の五一番目の州である」という一言、こんな屈辱的な認識が歴代政権にあったことに原因があると思います。つまり「日本国憲法」も超大国の都合次第では無意味となり、アメリカの「ショウ ザ フラッグ」の一言が天の声であり、神の声であるという。「日本国憲法」を根本から無視する認識にあるといわざるを得ません。そして、そんな認識が生まれている理由と、その行き着く先について、この運動を通じて明らかにすることが大切だと思います。
すでに世界地図から第二世界を消し、今第三世界をじゅうりんしつつあり、自らの価値観のみに基づいたグローバル化を進める倣慢はいかなる宗教の戒めにも反しており、決して道理にも合致しない。平和と人権、自由を望み、真の民主主義を望む日本国憲法の精神を掲げて、世界に向かって主張することこそが人類に貢献する立場であり、国民の望む道であると思います。
戦後いち早い時期の内灘の闘い、砂川基地の運動に引き続き、「小松に軍事基地を」と報道された昭和三〇年代の始めからの一貫したねばり強い運動が二〇年を経て、十二名の原告とこれを支援する人たちによって引き継がれ、今日へと継承発展した。この運動の原点はスタート時期から今日まで、そしてこれからも不変で、まさに近代史の教訓、とりわけ第二次世界大戦の実態と経験が半世紀を経て、決して消すことのできないたたかいそのものであり、自由と人権を確立し、平和を守り、発展させ、戦争を拒否するという憲法擁護の運動そのものであり、私たちが全人類に呼びかけていくべき道標であると思います。
ベトナム戦争、アフガン戦争、有事立法、イラク占領と、更に文明の一元化をごり押しする超大国のグローバリズムに追随するかぎり、尊厳も大義も道理もあり得ないと思います。
今こそ憲法を拡め、世界の人々に「日本国董法」を知らせていくことが大切だと思っています。
(二〇〇三年六月「やかまし」三四号)
去る1月13日に湯浅治男さんが亡くなったという訃報に接した。最後にお目にかかったのは昨年3月の判決の日だった。湯浅さんから「遺言だ」といって渡された1枚の紙も、「だらなこと言っとるな」と一蹴して、その紙も紛失してしまった。その後、11月に爆音訴訟原告団解団集会に参加したとき、必ず会えると思っていた湯浅さんの姿がなく、「もしや」と思っていたら、この訃報である。
私は10年間、湯浅さんの間近で、うるささ指数90コンターで暮らしていたから、湯浅さんの遺言は紙に書かなくともいい、1975年第1次提訴から47年の軌跡こそが「遺言」である。
写真は1999年9月の正光寺での爆音訴訟現地検証で写したもので、たたかう猛者たちとともに踏ん張っている。あの世で、目を光らせ、私たちを叱咤激励してください。
2023年1月15日
1999年9月 小松基地爆音訴訟現地検証(正光寺境内)

「平和憲法を道標に、運動を進めよう」 湯浅治男
昭和五〇(一九七五年)年に提訴された、いわゆるファントム裁判は、その後の第二次の裁判から第三次、四次提訴へと引き継がれ、それも一審判決を経て、高裁での審理が始まっています。
この間すでに四半世紀の時間が経過しております。振り返って見ますと、当初一二名であった原告は現在一七〇〇名以上の原告という大きな運動となっております。同時に、小松で全国初に声を上げたこの闘いは、その後米軍横田基地、厚木基地、さらには極東最大といわれる米軍沖縄基地での運動へと発展し、今や原告数は数万人に達し、この運動を支援し、連帯する各界各層の人は数十万人、百万人にもなろうかという、かつて例を見ない具体的でねぼり強い運動に発展しております。
更にそれだけではなく、この運動は全国各地、各種の公害に苦しむ多くの人たちにも勇気を与え、環境を守り、人権確立を求める運動とも連帯し、憲法を守り、憲法を活かす要求とも一体となっております。
長期にわたるこれらの運動は相互に補完しつつ、深刻な公害の実態を余すところなく、白日のもとにさらし出し、社会のあり方を問う運動になっており、同時に最大の争点である自衛隊の実態の持つ違憲性、非法制、そして被告国の主張の矛盾をもますます明らかにしつつ、二一世紀に向かっての人類の指針を示す役割を果たしております。
私は被告国の主張の矛盾と狼狽の根本的な原因は、国による最初のボタンのかけ違いにあり、そのことを国民の目からそらせ続けてきた歴代政権にこそあると思います。
最近、元防衛庁長官の久間章氏が言いました。「日本は米国の五一番目の州である」という一言、こんな屈辱的な認識が歴代政権にあったことに原因があると思います。つまり「日本国憲法」も超大国の都合次第では無意味となり、アメリカの「ショウ ザ フラッグ」の一言が天の声であり、神の声であるという。「日本国憲法」を根本から無視する認識にあるといわざるを得ません。そして、そんな認識が生まれている理由と、その行き着く先について、この運動を通じて明らかにすることが大切だと思います。
すでに世界地図から第二世界を消し、今第三世界をじゅうりんしつつあり、自らの価値観のみに基づいたグローバル化を進める倣慢はいかなる宗教の戒めにも反しており、決して道理にも合致しない。平和と人権、自由を望み、真の民主主義を望む日本国憲法の精神を掲げて、世界に向かって主張することこそが人類に貢献する立場であり、国民の望む道であると思います。
戦後いち早い時期の内灘の闘い、砂川基地の運動に引き続き、「小松に軍事基地を」と報道された昭和三〇年代の始めからの一貫したねばり強い運動が二〇年を経て、十二名の原告とこれを支援する人たちによって引き継がれ、今日へと継承発展した。この運動の原点はスタート時期から今日まで、そしてこれからも不変で、まさに近代史の教訓、とりわけ第二次世界大戦の実態と経験が半世紀を経て、決して消すことのできないたたかいそのものであり、自由と人権を確立し、平和を守り、発展させ、戦争を拒否するという憲法擁護の運動そのものであり、私たちが全人類に呼びかけていくべき道標であると思います。
ベトナム戦争、アフガン戦争、有事立法、イラク占領と、更に文明の一元化をごり押しする超大国のグローバリズムに追随するかぎり、尊厳も大義も道理もあり得ないと思います。
今こそ憲法を拡め、世界の人々に「日本国董法」を知らせていくことが大切だと思っています。
(二〇〇三年六月「やかまし」三四号)