続々 石川県内の両墓制について
西村某が遺骨のない墓に墓地使用許可を出したのは違法であると主張して、金沢市に住民監査請求をすると息巻いているので、当ブログ『アジアと小松』2022/7/8、7/24記事に続いて、石川県内の両墓制について調査した。
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(1)銭屋五兵衛の隠れ墓
去る6月8日に、野田山墓地の銭屋五兵衛・隠れ墓を見てきた。墓全体が苔に覆われ、ただの石塊にしか見えず、説明の石柱がなければ、それと気付かない。
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『北国新聞』(1983/1/10)の「レポート野田山から 銭五秘話」によれば、「高さ67センチの赤戸室の自然石に『銭屋惣墓』と刻まれた字句がかすかに読み取れ、墓石全体は青くこけむしている。正面左側には『天保5年5月』と建立年月が記されている」、「銭屋五兵衛が獄死した嘉永5年(1852年)の約20年前に当たり、建立年月から見る限りは、これを銭五の墓とするには無理がありすぎる」、「墓地所有者である卯辰家の現当主、卯辰楽男さんが120年にわたって語り継がれてきた秘話を明かす。『銭五と親交が深かった三代前の当主が、その悲運の死を哀れみ、…どこかの寺にあった経塔(注:経文・陀羅尼などを納めて供養する塔)を墓地の一角に移転させ…』…今流にいうカムフラージュされた隠れ墓が存在する」と書かれている。
卯辰さんは「分骨してもらって、埋めた」と語っているが、これは眉唾物である。銭五が獄死したのは1852年で、彦三・長徳寺の墓地に納骨された後、1864年に金石・本龍寺に遺骨が移された。一方野田山の銭五・隠れ墓には獄死18年前の「天保5年(1834)」と刻まれており、卯辰家が「どこかの寺にあった経塔」を持ってきて、銭五を偲ぶ墓としていたのではないだろうか。このように、野田山墓地には遺骨の存否とは関係なく、お墓を作り、故人を偲ぶお墓があったのである。
【注:長徳寺の説明書きには、「銭屋五兵衛翁の菩提寺長徳寺はもと能美郡清水村(今の辰口町)にあったが,1614年頃金沢市鍛治町(今の東別院西門前)に移り、1902年に現在地へ移転した。銭屋家は代々当寺の門徒で、清水村に居住していたが、1660年頃宮腰(今の金石町)に移住した。1852年に五兵衛は牢死し、その遺骨は当寺の墓地に納骨されている。一代の商傑銭五の菩提寺である。加越能史談会」とある。】
(2)能登半島でも
1975年6~7月にかけて「能登地方における葬制墓制・慣行調査」がおこなわれ、『奈良大学紀要』8号(1979年)に同調査の報告論文が掲載されている。論文によれば、羽咋以北の寺院にアンケートを送り、3分の1の111通を回収した。回答から、第1次墓はサンマイ、ノバカ、ステバカ、マツカ、カクシバカ、イケバカ、ノボチと呼ばれ、第2次墓はハカショ、ハカ、ヒキバカ、タッショ、マイリバカと呼ばれていることが確認された。すなわち、能登地域には両墓制が存在しているのである。
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『石川県民俗資料緊急調査報告』(1965年、石川県教育委員会)の89頁には、羽咋市寺家町の墓制について「サンマイへは葬式道を通行。野帰りのワラジはサンマイで脱ぎ捨て、村の入口で洗足し」と書かれている。ここでのサンマイは第1次墓(埋め墓)をさしている。また、『海士町舳倉島』(1975年)の葬制の項で、「島の墓はカラバカであって、骨は寺に預かってもらう」と書かれている。ここでのカラバカは第1次墓(埋め墓)をさしている。
『北陸中日新聞』(2022/8/24)の投稿欄に、「私の家にはすぐ近くの墓のほか、2キロほど歩いた山と1キロほど行った所の3カ所に墓がある。…家から2キロの山道は歩いて上がるのはつらかった覚えがある」(沢田藤子 石川県能登町)と記されていた。
このように、能登地方では、第1次墓(埋め墓)と第2次墓(詣り墓)が習俗として存在してきたのである。
(3)全国至る所に
文化財保護委員会が民俗資料緊急調査(1962~1964)をおこない、『都道府県民俗地図』によると、「調査時に確認された両墓制習俗を持つ集落は、滋賀県(60)、奈良県(59)、京都府(42)、兵庫県(39)など近畿地方に圧倒的に多い。その他の都道府県では三重県(45)、福井県(39)、静岡県(22)を除くと少ない」という。(『フリー百科事典』より孫引き)
現存する両墓制墓地の例として、埼玉県新座市大和田や入間川の流域、長野県佐久地域、奈良県大和高原地方、瀬戸内海塩飽諸島(佐柳島、志々島、高見島など)を挙げている。
狭山差別裁判に関心をもち、現地調査をおこなったりしてきたが、石川一雄さんの無実論のなかに、両墓制についてのレポート(2009年)を見つけた。以下、一部を要約・転記する。
「両墓制」は宗派とは関係ない土着の習俗に近いものであり、狭山市内で両墓制をおこなっていた区域は入間川沿いの一部の区域(被害者宅とは相当離れた地区)に限られることが確認された。狭山市内で両墓制をおこなっていたのは、明光寺、長栄寺と柏原の一部で、現在でも「両墓制」の墓地が残っているのは明光寺だけである。
昭和20年代までは普通におこなわれていたが、昭和40年代になって火葬が一般的になったことに伴って、それまで「両墓制」をおこなっていた家も墓を造り直して一般的な火葬による埋葬・墓の形式に改めたところが多い。
資料:フリー百科事典
分布
両墓制は近畿地方に濃厚に存在し、関東、中部、中国、四国には散在、点在の形である。民俗資料緊急調査による『都道府県民俗地図』によると調査時に確認された両墓制習俗を持つ集落は、滋賀県(60)、奈良県(59)、京都府(42)、兵庫県(39)など近畿地方に圧倒的に多い。その他の都道府県では三重県(45)、福井県(39)、静岡県(22)を除くと少ない[3]。
現存する両墓制墓地の例
・埼玉県新座市大和田
かつての川越街道、大和田宿の集落に土葬による両墓制の習俗が、昭和期まで存在していた。大和田4 丁目の普光明寺に詣り墓があり、大和田1 丁目の岾上(はけうえ)墓地と3 丁目の三本木墓地が埋め墓となっていた。現在[いつ?]では両墓地とも使われていない。埼玉県では入間川の流域にも両墓制習俗があった。
・長野県佐久地域
北は北佐久郡御代田町小田井、南は佐久市清川にかけて両墓制墓地が見られた[4]。
・奈良県大和高原地方
柳生、都祁など。奈良県は緊密な両墓制習慣があった。この地域の両墓制は、埋め墓を年齢や男女で分けるという特徴がある。
・瀬戸内海塩飽諸島
佐柳島、志々島、高見島などに両墓制の墓地が2014 年2 月現在の時点で現存する。埋め墓の上に霊屋を建てるという特徴がある。現在は火葬に切り替わっているが、墓地自体は使われている。佐柳島では現在でも埋め墓と参り墓を作ることが多く、両墓制が風習として現存していると言える。なお、佐柳島では埋め墓に霊屋は建てず木を削り出して作った人形を立てる。
両墓制墓地は現在でも見ることはできるが、近年は使われていない場合が多い。それは両墓制が土葬を基本とするため、火葬が一般的となった現在では土葬の両墓制は役割を終えたと言える。現在では特に埋め墓は地域の共同墓地として解釈されている場合が多く、近年は土地利用の観点から埋め墓を再整備して、石塔(墓石)を持つ単墓制の通常の火葬墓に切り替えるケースが多くなっている。
西村某が遺骨のない墓に墓地使用許可を出したのは違法であると主張して、金沢市に住民監査請求をすると息巻いているので、当ブログ『アジアと小松』2022/7/8、7/24記事に続いて、石川県内の両墓制について調査した。

(1)銭屋五兵衛の隠れ墓
去る6月8日に、野田山墓地の銭屋五兵衛・隠れ墓を見てきた。墓全体が苔に覆われ、ただの石塊にしか見えず、説明の石柱がなければ、それと気付かない。


『北国新聞』(1983/1/10)の「レポート野田山から 銭五秘話」によれば、「高さ67センチの赤戸室の自然石に『銭屋惣墓』と刻まれた字句がかすかに読み取れ、墓石全体は青くこけむしている。正面左側には『天保5年5月』と建立年月が記されている」、「銭屋五兵衛が獄死した嘉永5年(1852年)の約20年前に当たり、建立年月から見る限りは、これを銭五の墓とするには無理がありすぎる」、「墓地所有者である卯辰家の現当主、卯辰楽男さんが120年にわたって語り継がれてきた秘話を明かす。『銭五と親交が深かった三代前の当主が、その悲運の死を哀れみ、…どこかの寺にあった経塔(注:経文・陀羅尼などを納めて供養する塔)を墓地の一角に移転させ…』…今流にいうカムフラージュされた隠れ墓が存在する」と書かれている。
卯辰さんは「分骨してもらって、埋めた」と語っているが、これは眉唾物である。銭五が獄死したのは1852年で、彦三・長徳寺の墓地に納骨された後、1864年に金石・本龍寺に遺骨が移された。一方野田山の銭五・隠れ墓には獄死18年前の「天保5年(1834)」と刻まれており、卯辰家が「どこかの寺にあった経塔」を持ってきて、銭五を偲ぶ墓としていたのではないだろうか。このように、野田山墓地には遺骨の存否とは関係なく、お墓を作り、故人を偲ぶお墓があったのである。
【注:長徳寺の説明書きには、「銭屋五兵衛翁の菩提寺長徳寺はもと能美郡清水村(今の辰口町)にあったが,1614年頃金沢市鍛治町(今の東別院西門前)に移り、1902年に現在地へ移転した。銭屋家は代々当寺の門徒で、清水村に居住していたが、1660年頃宮腰(今の金石町)に移住した。1852年に五兵衛は牢死し、その遺骨は当寺の墓地に納骨されている。一代の商傑銭五の菩提寺である。加越能史談会」とある。】
(2)能登半島でも
1975年6~7月にかけて「能登地方における葬制墓制・慣行調査」がおこなわれ、『奈良大学紀要』8号(1979年)に同調査の報告論文が掲載されている。論文によれば、羽咋以北の寺院にアンケートを送り、3分の1の111通を回収した。回答から、第1次墓はサンマイ、ノバカ、ステバカ、マツカ、カクシバカ、イケバカ、ノボチと呼ばれ、第2次墓はハカショ、ハカ、ヒキバカ、タッショ、マイリバカと呼ばれていることが確認された。すなわち、能登地域には両墓制が存在しているのである。

『石川県民俗資料緊急調査報告』(1965年、石川県教育委員会)の89頁には、羽咋市寺家町の墓制について「サンマイへは葬式道を通行。野帰りのワラジはサンマイで脱ぎ捨て、村の入口で洗足し」と書かれている。ここでのサンマイは第1次墓(埋め墓)をさしている。また、『海士町舳倉島』(1975年)の葬制の項で、「島の墓はカラバカであって、骨は寺に預かってもらう」と書かれている。ここでのカラバカは第1次墓(埋め墓)をさしている。
『北陸中日新聞』(2022/8/24)の投稿欄に、「私の家にはすぐ近くの墓のほか、2キロほど歩いた山と1キロほど行った所の3カ所に墓がある。…家から2キロの山道は歩いて上がるのはつらかった覚えがある」(沢田藤子 石川県能登町)と記されていた。
このように、能登地方では、第1次墓(埋め墓)と第2次墓(詣り墓)が習俗として存在してきたのである。
(3)全国至る所に
文化財保護委員会が民俗資料緊急調査(1962~1964)をおこない、『都道府県民俗地図』によると、「調査時に確認された両墓制習俗を持つ集落は、滋賀県(60)、奈良県(59)、京都府(42)、兵庫県(39)など近畿地方に圧倒的に多い。その他の都道府県では三重県(45)、福井県(39)、静岡県(22)を除くと少ない」という。(『フリー百科事典』より孫引き)
現存する両墓制墓地の例として、埼玉県新座市大和田や入間川の流域、長野県佐久地域、奈良県大和高原地方、瀬戸内海塩飽諸島(佐柳島、志々島、高見島など)を挙げている。
狭山差別裁判に関心をもち、現地調査をおこなったりしてきたが、石川一雄さんの無実論のなかに、両墓制についてのレポート(2009年)を見つけた。以下、一部を要約・転記する。
「両墓制」は宗派とは関係ない土着の習俗に近いものであり、狭山市内で両墓制をおこなっていた区域は入間川沿いの一部の区域(被害者宅とは相当離れた地区)に限られることが確認された。狭山市内で両墓制をおこなっていたのは、明光寺、長栄寺と柏原の一部で、現在でも「両墓制」の墓地が残っているのは明光寺だけである。
昭和20年代までは普通におこなわれていたが、昭和40年代になって火葬が一般的になったことに伴って、それまで「両墓制」をおこなっていた家も墓を造り直して一般的な火葬による埋葬・墓の形式に改めたところが多い。
資料:フリー百科事典
分布
両墓制は近畿地方に濃厚に存在し、関東、中部、中国、四国には散在、点在の形である。民俗資料緊急調査による『都道府県民俗地図』によると調査時に確認された両墓制習俗を持つ集落は、滋賀県(60)、奈良県(59)、京都府(42)、兵庫県(39)など近畿地方に圧倒的に多い。その他の都道府県では三重県(45)、福井県(39)、静岡県(22)を除くと少ない[3]。
現存する両墓制墓地の例
・埼玉県新座市大和田
かつての川越街道、大和田宿の集落に土葬による両墓制の習俗が、昭和期まで存在していた。大和田4 丁目の普光明寺に詣り墓があり、大和田1 丁目の岾上(はけうえ)墓地と3 丁目の三本木墓地が埋め墓となっていた。現在[いつ?]では両墓地とも使われていない。埼玉県では入間川の流域にも両墓制習俗があった。
・長野県佐久地域
北は北佐久郡御代田町小田井、南は佐久市清川にかけて両墓制墓地が見られた[4]。
・奈良県大和高原地方
柳生、都祁など。奈良県は緊密な両墓制習慣があった。この地域の両墓制は、埋め墓を年齢や男女で分けるという特徴がある。
・瀬戸内海塩飽諸島
佐柳島、志々島、高見島などに両墓制の墓地が2014 年2 月現在の時点で現存する。埋め墓の上に霊屋を建てるという特徴がある。現在は火葬に切り替わっているが、墓地自体は使われている。佐柳島では現在でも埋め墓と参り墓を作ることが多く、両墓制が風習として現存していると言える。なお、佐柳島では埋め墓に霊屋は建てず木を削り出して作った人形を立てる。
両墓制墓地は現在でも見ることはできるが、近年は使われていない場合が多い。それは両墓制が土葬を基本とするため、火葬が一般的となった現在では土葬の両墓制は役割を終えたと言える。現在では特に埋め墓は地域の共同墓地として解釈されている場合が多く、近年は土地利用の観点から埋め墓を再整備して、石塔(墓石)を持つ単墓制の通常の火葬墓に切り替えるケースが多くなっている。