【19】『新韓民報』一九三二年五月五日~ (『尹奉吉全集』)
一九三二年五月五日
@【號外EXTRA!】青天の霹靂の尹奉吉(ユンボンギル)義士の爆弾一つが非道な日本人の暴行者たちを懲罰!
上海二九日、天皇の天長節を共同租界虹口公園で慶祝する際に、青天に霹靂のような韓國義士の尹奉吉氏の手榴弾が爆発し、日本居留民団行政委員会委員長河端は胸部が砕かれて即死し、日本公使重光は右側大腿部が切れて十ヶ月の間治療を要する重傷を負い、陸軍大将白川は頭と左側膝に重傷を負い、海軍中将野村は左の目が見えないようになり、陸軍中将植田は左膝が重傷、駐上海日本領事村井の足が重傷、友野盛は腕と胸が重傷だったという。
大韓義士尹奉吉氏は二五歳の青年で同日、天皇天長節に一〇一発の礼砲を撃とうと準備していたのを破壊して、虹口公園を修羅場にした。義士は現場で包囲されて生死を知ることができないという。
おかしい 日本の 怪獣たち
@日本高等官六人重傷 上海二九日
同日上海、在上海日本人と軍隊が共同租界虹口公園で日王の天長節を祝って、日本海軍、陸軍と警察一万人が列をなして警戒し、海軍、陸軍、外交官と日本人の団体の代表らが虹口公園で観兵式を挙行する時、午前十一時半頃になって、ある人が爆弾を投げて雷のように爆発し、日本軍の高級長官三人と外交官二人と団体の代表一人が重傷を負って救急自動車で病院に運ばれた。
1 駐中公使重光は両足を重傷し、激しい苦痛を感じていた。医者の言葉によると六ヵ月から八ヵ月まで床に臥して、治療する必要があるとした。
重光は四六歳の日本大分県人で明治四四年に東京帝国大法科を卒業した後、ベルリンの公使館で服務し、済南事件が発生した後に芳沢謙吉(駐華公使)と協調して対中外交を管理して、今は中国公使。
2 上海の日本陸軍を統率した白川総司令官は、爆弾が顔に当たり、燃えて倒れた。白川は六五歳で愛媛県人として日本士官大学を明治二四年にすませた後、少尉に任命され、大正十四年に大将になって、駐中国日本軍司令、人事局長、大学総長、十一師団長、陸軍次官、関東軍司令、軍事参議官などを歴任し、昭和二年田中内閣の時に陸軍大臣になり、上海総司令官になった。
3 陸軍副司令官植田は、爆弾が顔に当たり火傷を負った。
4 海軍部長野村は、爆弾が顔に当たって左目を失明し、もう一つの目も危なそうだ。五六歳、和歌山県人で、日本の海軍学校をすませた後、大正十五年中将になって、ドイツ、オーストリア、米大使館の武官を歴任してパリ平和会議の一員となった。軍令部参謀、遣外艦隊司令官、軍令部次長、横須賀鎮守府司令長官を歴任し、現在第3艦隊の司令官。
5 駐上海日本総領事村井は片足に重傷を負った。村井は四六歳で、青森県人、明治四四年商科大学をすませて、日本上海東亜同文書院の教授になり、漢学に精通している。また、長春領事館の領事だった。
6 上海日本人会主席河端は頭部と全身が爆弾に当たって数時間後に絶命した。
当日の爆弾が爆発し、近くで見た新聞記者の言葉によると重光公使は、狂風に木の葉のように空中に浮いて地に落ち、苦痛と血まみれだったので、日本人看護婦が負傷者の衣服を破り、応急手術をして血を止めた後に、車に乗せて病院へ行った。
日本兵が韓国人四人と中国人二人と虹口公園の管理人一人を逮捕したという。 韓国人義士は年齢が二八歳で、租界で洗濯所の仕事をしている人なのに、日本人は独立党という。日本兵は虹口と北四川路に戒厳令を発布したという。
当日、米国シカゴ人チャブル・エプ・ヒパドゥさんは自分の家の中で、中国人二人が写真を撮ることを承諾した容疑で日本軍憲兵に逮捕された(その後、米国領事の交渉で釈放)。当日、虹口公園に約四万人の人が集まったが爆弾が爆発する際に、その爆発力が猛烈で、日本人重光、白川など六人が空中に浮かんで落ちたため、現場にいた者はみんなびっくりした。その後に、壇の下に爆弾がまだ一個あることを発見した。
@爆弾を投下した者は尹奉吉
上海の虹口公園で爆弾が爆発した後、上海の日本当局は、非常に多くの韓国人を逮捕し、厳しく取り調べをおこなっている。 一説によると、爆弾を投げた尹奉吉は自分が爆弾を投げたと自白したという。ある人は爆弾を投げた人が日本人とも言うが日本軍内では、極秘にして発表しないと言っている。
一九三二年五月十二日
@中日戰爭記 日本政府の高官達を除去すると
高麗革命党リーダー 金○さんの宣言
上海九日 上海に居留する韓国人が同日に通告文を作成して声明したが、四月二九日、虹口公園で発生した爆弾事件は、韓国人が日本人の重要高官を攻撃したのだが、近いうちに日本と満州で爆弾が再び爆発すると言った。
虹口爆弾に日本人会会長河端を殺して、重光公使に重傷を負わせて、海軍中将野村、陸軍大将白川、中将植田など6人に重傷を負わせたが、その爆弾がどこから来たのか、捜索している途中に、韓国人が以下の宣言を発してその真相を明確にした。
この宣言をした人は高麗愛国会の領袖金九(キム・グ)氏で、彼が書いて発表した。金さんの話しでは虹口爆弾事件は自分が主導であると。その実情を世界に宣言するので、日本人は上海にいる罪のない韓国人を逮捕するなと言った。
彼が四月二九日、韓国人の尹奉吉を虹口公園に派遣して爆弾を投げつけ、目的を達成し、尹奉吉が一人逮捕されて、生死が分からないとした。金容疑者はすでに上海を発ったと語った。彼の一生は力を尽くして韓國の自由を図ることにある。日本が我々韓国人を消滅させようとする工作をしたら、我々は、引き続き抵抗するつもりだ。本会の目的は日本の領袖高官を殲滅することなので、将来日本と満州方面においても虹口爆弾が再び爆発すると伝えた。
@THEM DAYS ARE GONE FOREVEROO
上海 我らの革命党党首の中の一人である金九氏は虹口公園の爆弾令を下すことを計画し、事件がおこなわれた後、どこかへ静かに避けたようだ。
ネズミのような日本人たちが彼を捕らえようと努力をしているようであり、罪のない韓国人に邪悪な毒手を悉く使っているようだ。
韓国民族のなかで、義侠烈士は尹奉吉、金九両氏だけではない! 満州でも日本でも神出鬼没であることを知らなければならない。
暗殺は国際法に違反だということだが、私たちもそれくらいは知っている、いま、私たちの都合としてはそれ以外に出来ることがないと思われる。
一九三二年五月十九日
@THEM DAYS ARE GONE FOREVER
日本人たちは総理大臣を殺すことを「愛国上」だというのだから、もし日王を銃殺したら、何と称賛するか? 本当の愛国者と本当の武士をみるなら、韓国の安重根、李奉昌、尹奉吉などをみなさい。
@上海事変とラソン(ロサンゼルス)同胞
筆者が知っている限りラソン(ロサンゼルス)とその付近に居留する同胞たちの数は約六〇〇人に達する。彼らの多大の数が集まる時は珍しい。三一運動後、会合が何度もなかったのだ。(略)
今回の上海事件が生じたときに、ラソン(ロサンゼルス)に居留する同胞たちが一堂にいっぱい集まったという。各団体の紳士淑女たちがみな集まって大盛況を博したという。呼びかけてもなかなか来ないで、一堂に集まるのが厳しかった彼らがどのように集まってきたのであろうか? 他の理由はない。つまり上海から、青天に霹靂のように起きた、尹奉吉義士の爆弾の音に感動して、集まったことであり、第二に、安昌浩と彼の同志が敵の手につかまったという知らせを聞いて鬱憤が刺激されて、求めなくても、行きたくて、来たくて、一堂に会することになったのだ。
言い換えれば、胸襟に満ちた愛国心が爆発し、韓国の共同の敵である敵日本人に対抗する考えが何よりも強く、この時間は君の団体か、私の団体かをすべて忘れて一堂に集まったのだ。そしてラソン(ロサンゼルス)は安先生の第二の故郷だ。彼の家がそこにあって、彼の妻子がそこにいる。ラソン(ロサンゼルス)にいる同胞の中で、安先生のお仕事を否定する人もなくはないが、安先生が過去三〇年余りの間、民族のために努力していたが、今日、犠牲になったことにたいしてこそ、深い同情を示さない方はいないだろう。
このすべての動機が愛国的であり、このすべての場所が愛国的であるため、この全ての結果も愛国的になると信じる。その瞬間に、その愛国心とその熱情のように、熱烈な覚悟があるなら、何でもすべて成功することができる。多くのその瞬間は、その瞬間であるため、他の瞬間がその瞬間と同じではない。
一九三二年五月二六日
@白川大将死亡説
上海二四日、日本軍総司令白川は虹口爆弾で重傷を負った結果、昨日の報道によると内臓の出血によって死亡したという。主任医師の発表によれば、死ななかったと言い、昨日の朝十一時に、再び手術をして輸血をした後に回復する希望があると語った。
昨日外国の新聞に白川が死んだと記載されたことについて、軍当局は事実でないと否定した。白川の病状は危いが、すぐに死亡する危険はないと。
@虹口爆弾義挙と尹義士の態度厳正
(上海中国人時事新報翻訳記載する)
日本司令部で虹口爆弾事件の犯人が韓国人の尹奉吉であることが判明したため、昨日午後一時に租界に行って、独立党党首安昌浩氏を逮捕した 。…日本の警察官が韓国人を逮捕して審問し、その後日本に送り、そこの裁判所で裁判をすると言った。
@尹義士態度
日本軍の重要人物たちを攻撃した尹奉吉義士は高麗人だ。二五歳でフランス租界のダイマ路にある毛織物を染める工場の職員として、韓國の臨時政府の外交部員を務めた。その前、韓国にいる時にその父親が日本人に過酷な虐待を受けた故に、敵を討ちたいと思って上海に渡った。虹口公園で逮捕された後に、態度が厳しく沈着していて、少しも慌てず、笑みを浮かべている。尹奉吉義士はいま日本の憲兵隊司令部にあるため、厳密な取り調べを受けているとし、その内容は極秘密で、たとえ日本側の新聞記者でも実情を知らないし、伝聞によると東京に連行する云々と。
一九三二年六月二日
@上海新聞記事
五月十日、上海で発行した中国「時事新報」に記載された金九氏の英文の記事を翻訳して、虹口爆弾事件の真相を一般読者に紹介する。
虹口爆弾事件の真相はまだ明瞭ではない。上海に交流する同胞たちが先に罪なく逮捕され、甚だしくは東京にいる韓国人まで無理な調査を受けることになった。私が爆弾の主導の生き残りだ。私が上海を去る前に人道のために、正義のために、この事件の真相を公表する。私の死を喚起して、一致団結して蜂起、日本の侵略政策を破壊することを望んでいる。
日本が武力をもって韓国を併合し、再び武力で東三省を奪取し、また、理由もなく戦いを始め、上海に侵入し、このようなことはその危険性が東洋に及ぼすものであり、かつ、世界平和に及ぼすだろう。
わたしは決心し、世界平和の敵、人道、正義を破壊した者に報復するため、一番先に私は李奉昌(イ・ボンチャン)を東京に派遣した。李君が一月八日に日本の天皇を狙撃し、四月二九日に私はまた虹口公園に派遣し、日本軍閥の首領たちを狙ったのだ。これに虹口事件を詳らかに左に記録し、東京事件は後日に延ばしておく。
四月二九日、夜明けに私は、尹奉吉を呼んで、やっと自分が作った爆弾二個を与えた。その一つは我々の敵である日本軍閥を銛で突くものの、特に注意して他国の人を傷つけないようにお願いし、また一つは尹君が事件後に自殺するようにお願いした。尹君が感慨無量として承知して、私たちは涙を我慢して、別れの際に再び慎重をお願いし、来世にまた会うことを望んだ。私はすぐにタクシーで尹君を虹口公園に送るときに、彼は体に爆弾二つと四ドルを携帯しただけだ。私は尹君の成功を黙々と祈った。
尹君は、高麗、忠清道の礼山郡で一九〇八年に貧困な家で出生した。その親がまだ生存し、妻と二人の息子がいる。人となりができて神童というほめ言葉を受けた。成人に成長した後性格が快活で、人とけんかしてもいつも勝った。
十七歳に夜間学校を設立し、貧しい農家の子共を教え、五年継続した。日本が断行した経済、政治侵略によって、韓国人が死にかけていくのを見て、彼は決意して、家を離れて敵に報復することにした。上海に来る途中に、青島に滞在する間、日本人の中原賢次郎のクリーニング屋で洗濯の作業をして、旅費を稼いで、昨年8月に上海に到着して、某工場で仕事をしていたが、その工場では仕事が過酷なので、辞職した後、虹口八百屋で仕事をしながらチャンスが来るのを待っていた。
最近、私のもとに来てどうしたら韓國を救援出来るかを討議した。それで韓国人愛国団の団員となった。この愛国団は私が組織した。この団員はいずれも愛国志士として、その目的は武力で韓國を救援しようというものだ。誰でも犠牲心がある者はすべて団員になる資格がある。団員の指揮及び承諾は全て私一人であった。それでも他の団員の名前をお互いに知っておらず、また、集会もなかった。私たちの会の工作の進行は秘密にある。敵の領頭を謀殺し、敵の行政機関を破壊し、国の独立を図ること。韓国は兵力と財力では日本の司令白川と対決できない。よく訓練された警備が厳しい中で、挙事を断行したのである。
私は誰か? この手紙を書いた者は誰なのか? 私は金九だ。つまり日本軍が極力捜索する者である。私は五七歳、私のすべての生命は国を救い、独立を図るのに貢献した。(略)
虹口事件が発生する三日前に、尹奉吉義士は韓國国旗のもとで写真を撮って、まだ韓国人愛国団に向かって宣誓文を朗読した。
その宣誓文は「私は赤い真心で、韓国人愛国団の一員として、今回の中国を侵略した日本軍にたいしての私たち祖国の独立自由を追求し、回復することを図るように誓う。大韓民国十四年四月二六日宣誓文 尹奉吉」
@上海事件の犠牲者
最近、上海虹口公園爆弾事件に最大の犠牲を受けた人は韓国人だ。犠牲は大きな犠牲だが、無意味な犠牲じゃなく、効果のない犠牲じゃなく、値のない犠牲じゃなく、栄誉ある犠牲であり、莫大な良い結果がある犠牲であり、お金を払っても買えない高貴な価値がある犠牲だ。
このような犠牲なしには、韓国民族が敵の圧迫から逃れることができない。この犠牲があったため、韓民族の活発勇敢な自由精神が世界万邦に、雄弁に公布されており、この犠牲があったため韓中両国の友情はさらにさらに親密になるだろう。この犠牲があったために日本帝国軍閥主義の軍隊が動揺し、終わるだろう。この犠牲があったために世界のいろんな国が東洋の政局について目を開けて耳を傾けており、東洋の平和を擾乱させる者すなわち日本人の行動を直接、間接に妨害するようになった。
今回の事変に死刑宣告を受けた、我々の数人の犠牲者、つまり国家のために犠牲にした何人もの犠牲者を忘れてはならない。
犠牲者たちは誰か? この文章を書いているこの時間に、もう日本軍に死刑を受けているかも分からない尹奉吉義士! その犠牲こそ犠牲というより千万年歴史を明るくする英雄的行動であり、上海公園に記念碑を立てるほどの大成功をした。何の公正な理由もなく、人を蹂躙して無辜の平民の村落に爆弾をむやみに浴びせて、数万人の無辜の中国民衆を虐殺した日本軍閥の罪悪の怪獣たちを直接処罰して、全身を犠牲にした尹奉吉義士の犠牲は犠牲でも大成功だ。
中国十九路軍が一ヶ月間争っても、あの日本人の罪悪の党首をどうにもできなかったことを、尹奉吉義士は短い時間で解決したから、一個人が十万大兵でもできなかったことを成就したから大成功だ。私たちの大きな犠牲はつまり安昌浩(アン・チャンホ)氏が政治的死刑宣告を日本人に受けたのだ。彼の政治的活動はとても希望が無いようだ。もし彼の生前に独立がなったら彼がまた私たち政治社会に出て活動する機会があるだろうが、しかし、我々の独立がなる前に彼が私たちの生前に会えないようだ。
インドのガンジーのような人は刑務所の入出が自由で、独立運動をしても英国の比較的寛大な政策にあるが、あの残忍暴虐な日本人の手に引っかかった我々の独立運動家は板の上の肉であり、沸騰する鍋の中の魚だ。その生命の危険がすぐ前にあり、もちろん政治的死刑宣告である。
海外韓人独立運動者の中で安昌浩が政治的死刑宣告を受けるようになったことが、私たち全体の大きな損失であり、大きな犠牲だ。もちろん彼の系統の人の中で彼の後を継いで、引き続き活動する人が現れてくると信じるが、しかし、彼と一緒に三〇年余りの間、持続的な忠義と真心をもって国家民族のために奮闘する人物もそんなにはいない。彼が関係しても計画が何でもかんでもそれを成就することができず、敵の鉄格子監獄の犠牲になってしまうようになったのは、わが民族に大きな犠牲だ。
私たち民族の中に安重根、李在明(イ・ジェミョン)、張寅煥(チャン・インファン)、李奉昌、尹奉吉のような義侠烈志はずっと出ているが、我々の革命運動を支配するような安昌浩のような人も珍しい。彼の雄弁、彼の組織力、彼の清廉、彼の犠牲心、彼の観察力、彼の寛容心、この全ての資格は人によってすべて持てないことだ。 私たちはこの事件の犠牲者たちの後を継ぎ、犠牲的精神で引き続き活動することが彼らの犠牲をむなしくしないことだ。
@爆弾事件高裁会議に付託
東京陸軍省では五月六日午後四時に、上海爆弾事件の犯人について、だいたい次のように発表した。
1 犯人尹奉吉は、憲兵隊に留置して、尋問した後、軍法会議に予審を請求した。
1 使用した爆弾は二つとして、一つは水筒の形であり、またひとつは弁当の形で、投げたのは水筒の形であるという。
@尹奉吉義士は口を閉じて話さない
尹奉吉義士は逮捕されて以来、約十時間の間、憲兵隊の厳重な取り調べを受けたものの、まだ口をとじて話をしない。ただ、他の韓国人二人と独立運動のためにおこなったに過ぎないと、耐えているだけだという。
一九三二年十二月二二日
[別報]、尹奉吉義士の殉国 一九日、金沢刑務所で
@東京十九日
上海虹口公園で爆弾を投じて、日本高官数人を殺し、数人を負傷させた。今日十九日、日本政府は銃殺の死刑を執行した。四月に上海を侵略した日本軍が虹口公園で、天皇の誕生祝いを挙行する際に、在上海の日本海陸軍大将と外交官が参加して、観兵式を挙行する際、尹奉吉義士が爆弾を投げて攻撃した後、義士は現場で逮捕され、日本領事館警察に尋問を受けた。
@金沢十九日
上海虹口公園で日本大将白川と日本人民団長河端を殺して、重光と野村海軍中将と領事らを負傷させた尹奉吉義士は十八日夜に大阪陸軍刑務所から金沢に送られて、今日午前七時四〇分に金沢刑務所で銃殺を受けた。
一九三二年十二月二九日
@尹奉吉(ユン・ボンギル)義士追悼会 ラソン地方会の主催で
この二六日午後八時に興士団でラソン(ロサンゼルス)国民会地方会主催のもとに、上海攻撃の英雄烈士である故尹奉吉義士の追悼式がおこなわれたが、当会一般会員は沈着と鬱憤または忠魂を慰める黙想に追悼し、ラソン(ロサンゼルス)婦人愛国団の追悼文を読み閉会した。その追悼文は以下の通りである―ラソン(ロサンゼルス)支局通信。
@サンハン(サンフランシスコ)地方会の主催で
大韓二〇〇〇万民族の公憤を払拭するために、中国四億民族の公憤を憤激し、東洋の平和のために身を投げ出した尹奉吉義士の慰霊祭を、先週の月曜日夕方午後七時三〇分に、市内の韓国人の礼拝堂で地方会長イ・チョ氏の司会で追悼会を開いた。同胞たちはもちろん、付近ならびに遠くのスタクトンとサクラメントにおられる同胞たちまできて、内には立錐の余地がなく、満員になった。 愛国歌一節と最後の節で開会した後、司会者の簡単な趣旨説明がおこなわれた後に、黄サション牧師の祈祷で故尹奉吉義士が殉職した忠魂を慰めた。
金薫(キム・フン)さんが登壇して、追悼の辞を読み上げた。第一に尹義士の為国殉死・死生就義を追憶する意味を話し、第二にこの追悼で韓国一般は、尹義士の虹口精神を持ち、第三に私たちは尹義士の不十分な意味をつなげて引き続き活動しようとした。金薫氏の追悼の辞でスケジュールを終えて、八時半に愛国歌二、三節で追悼会を閉会した。
@國民會總會 公文第三十号 大韓民国十四年十二月二八日
大韓の国民会長 ベ・クイルギュ
上海虹口公園で高官数名を爆殺した尹奉吉義士が今月十九日金沢刑務所で殉国されたニュースは新聞紙上に報道されたものを見て、みんなが知っている通りです。国家民族の公憤を晴らすため、敵陣に突入して敵将を攻撃した尹義士を、韓国人たる者誰もが仰慕し、もちろん誰もが尹義士の忠魂のために慰霊祭をかけると思いますが、公文を送るので貴地方で一般的に荘厳な追悼会を開いて、故尹公の魂を慰めてください。
@尹、李両義士追弔会
本地方で、国民会議の総会の公文書により十二月三一日午後七時に、本地方会館で尹奉吉、李奉昌両義士の追悼会を挙行した。
一九三三年一月十二日
@尹奉吉義士追悼会 ジュンカジュの同胞たちの義憤沖天
十二月二六日午後二時に、我らの教会内でジュンカジュ(タニュパ、オリドゥンリ、パルリオセンゴ)の四ヵ所在留同胞男女八〇人あまりが集まって、尹奉吉義士を追悼する儀式を挙行し、開会以降尹公が十二月十九日午前七時四〇分、金沢市で敵国に銃殺された事を報告する際、一般同胞の義憤を衝くことが極度に至って、尹公の忠魂をすべて感じた心に忠義愛国の決心が充満した。
一九三三年一月十九日
@尹奉吉(ユン・ボンギル)義士追悼会 ムクギョン地方会で
一月八日夜七時に、尹奉吉義士の追悼会を開き、一般会員が悲憤慷慨するとともに、尹奉吉、李奉昌両義士の家族に見舞金を収めて送ることにしたという。
@タンピコ(メキシコ)地方会で追悼
タンピコ地方会で一月七日午後八時に故尹奉吉義士の追悼会を地方会長バン・ヨンハ氏の司会で開き、司会者の趣旨説明が終わると、書記チェ・チャンション氏が追悼文を朗読した後、尹奉吉義士の今年四月二九日虹口爆弾の義挙は歴史上にもない空前絶後に、沈着して壮快な中でおこなわれた状況を報告すると、聴衆の雰囲気は悲壮興奮した。
行事のなかで一同は、故尹義士の写真を眺めながら、感慨無量な気持ちで約三分間黙想して、殉国した義士の忠魂を追悼した後、各自誠意で尹公の義侠心と敵愾心を表して、愛国歌初の節と最後の節で閉会したそうだ。―タンピコ通信
一九三三年二月二日
@尹、李両義士追悼会 シカゴ国民会議の主催で
満堂は忠魂を追憶して
報道されてきた後に、海外各所では大韓民族の歴史を、血統を輝かせた李奉昌、尹奉吉両義士の追悼会があったことを私たちは記憶する。それで当地居留民一同は一月二一夜の午後八時半に、当地の韓国人教会の大講堂で、シカゴ国民会の主催で、李、尹両義士のための臨時追悼会がシカゴ国民会長ハン・ジャンホ氏の司会で開会された。―シカゴ支局通信
@国民会の創立第二四年記念
オハイオ州クリボルレンドゥ同胞たちが
先月十三日夜にオハイオ州クリボルレンドゥの居留同胞たちが、パク・ピル氏の家に集まって、殉国した李奉昌、尹奉吉両義士の追悼式を挙行したが、主席パク・ピル氏が趣旨を説明すると、一同が起立して両義士の肖像画に向けて三分間黙想があり、李イル君が略歴を報告し、ウ・サドン氏の追悼の辞があり、両義士の家族慰労金を収めた。(クリボルレンドゥ通信)
一九三三年二月二三日
@尹奉吉義士追悼会 ~マッダンサス地方会の主催で
マッダンサス地方会館内で、地方会長イム・ビョンイル氏の司会で、尹奉吉義士の追悼会を開いた。 (マッダンサス通信)
@ブエルモ地方会の主催で
二月五日午後三時に本地方同胞一同が会合し、尹奉吉義士の追悼式を挙行した。同地方会長は病中にあったが、尹義士追悼会を主張して殉死した忠義を追悼した。(ブエルモ通信。)
一九三三年三月十六日
@尹、李両義士追悼会
カルディェラ地方会主催で三月一日午後三時一般会員が集まって故尹奉吉義士の追悼会を悲憤慷慨した気持ちでとても静粛におこなった。
@メリダ地方会の主催で
メリダ地方会では三一記念式を挙行し、続いて李奉昌、尹奉吉両義士の追悼式をおこなった。―地方会長の通信
@○○両義士遺族救恤金寄付した方
尹奉吉、李奉昌両義士の家族のために見舞金を寄付した方に感謝する。
一九三二年五月五日
@【號外EXTRA!】青天の霹靂の尹奉吉(ユンボンギル)義士の爆弾一つが非道な日本人の暴行者たちを懲罰!
上海二九日、天皇の天長節を共同租界虹口公園で慶祝する際に、青天に霹靂のような韓國義士の尹奉吉氏の手榴弾が爆発し、日本居留民団行政委員会委員長河端は胸部が砕かれて即死し、日本公使重光は右側大腿部が切れて十ヶ月の間治療を要する重傷を負い、陸軍大将白川は頭と左側膝に重傷を負い、海軍中将野村は左の目が見えないようになり、陸軍中将植田は左膝が重傷、駐上海日本領事村井の足が重傷、友野盛は腕と胸が重傷だったという。
大韓義士尹奉吉氏は二五歳の青年で同日、天皇天長節に一〇一発の礼砲を撃とうと準備していたのを破壊して、虹口公園を修羅場にした。義士は現場で包囲されて生死を知ることができないという。
おかしい 日本の 怪獣たち
@日本高等官六人重傷 上海二九日
同日上海、在上海日本人と軍隊が共同租界虹口公園で日王の天長節を祝って、日本海軍、陸軍と警察一万人が列をなして警戒し、海軍、陸軍、外交官と日本人の団体の代表らが虹口公園で観兵式を挙行する時、午前十一時半頃になって、ある人が爆弾を投げて雷のように爆発し、日本軍の高級長官三人と外交官二人と団体の代表一人が重傷を負って救急自動車で病院に運ばれた。
1 駐中公使重光は両足を重傷し、激しい苦痛を感じていた。医者の言葉によると六ヵ月から八ヵ月まで床に臥して、治療する必要があるとした。
重光は四六歳の日本大分県人で明治四四年に東京帝国大法科を卒業した後、ベルリンの公使館で服務し、済南事件が発生した後に芳沢謙吉(駐華公使)と協調して対中外交を管理して、今は中国公使。
2 上海の日本陸軍を統率した白川総司令官は、爆弾が顔に当たり、燃えて倒れた。白川は六五歳で愛媛県人として日本士官大学を明治二四年にすませた後、少尉に任命され、大正十四年に大将になって、駐中国日本軍司令、人事局長、大学総長、十一師団長、陸軍次官、関東軍司令、軍事参議官などを歴任し、昭和二年田中内閣の時に陸軍大臣になり、上海総司令官になった。
3 陸軍副司令官植田は、爆弾が顔に当たり火傷を負った。
4 海軍部長野村は、爆弾が顔に当たって左目を失明し、もう一つの目も危なそうだ。五六歳、和歌山県人で、日本の海軍学校をすませた後、大正十五年中将になって、ドイツ、オーストリア、米大使館の武官を歴任してパリ平和会議の一員となった。軍令部参謀、遣外艦隊司令官、軍令部次長、横須賀鎮守府司令長官を歴任し、現在第3艦隊の司令官。
5 駐上海日本総領事村井は片足に重傷を負った。村井は四六歳で、青森県人、明治四四年商科大学をすませて、日本上海東亜同文書院の教授になり、漢学に精通している。また、長春領事館の領事だった。
6 上海日本人会主席河端は頭部と全身が爆弾に当たって数時間後に絶命した。
当日の爆弾が爆発し、近くで見た新聞記者の言葉によると重光公使は、狂風に木の葉のように空中に浮いて地に落ち、苦痛と血まみれだったので、日本人看護婦が負傷者の衣服を破り、応急手術をして血を止めた後に、車に乗せて病院へ行った。
日本兵が韓国人四人と中国人二人と虹口公園の管理人一人を逮捕したという。 韓国人義士は年齢が二八歳で、租界で洗濯所の仕事をしている人なのに、日本人は独立党という。日本兵は虹口と北四川路に戒厳令を発布したという。
当日、米国シカゴ人チャブル・エプ・ヒパドゥさんは自分の家の中で、中国人二人が写真を撮ることを承諾した容疑で日本軍憲兵に逮捕された(その後、米国領事の交渉で釈放)。当日、虹口公園に約四万人の人が集まったが爆弾が爆発する際に、その爆発力が猛烈で、日本人重光、白川など六人が空中に浮かんで落ちたため、現場にいた者はみんなびっくりした。その後に、壇の下に爆弾がまだ一個あることを発見した。
@爆弾を投下した者は尹奉吉
上海の虹口公園で爆弾が爆発した後、上海の日本当局は、非常に多くの韓国人を逮捕し、厳しく取り調べをおこなっている。 一説によると、爆弾を投げた尹奉吉は自分が爆弾を投げたと自白したという。ある人は爆弾を投げた人が日本人とも言うが日本軍内では、極秘にして発表しないと言っている。
一九三二年五月十二日
@中日戰爭記 日本政府の高官達を除去すると
高麗革命党リーダー 金○さんの宣言
上海九日 上海に居留する韓国人が同日に通告文を作成して声明したが、四月二九日、虹口公園で発生した爆弾事件は、韓国人が日本人の重要高官を攻撃したのだが、近いうちに日本と満州で爆弾が再び爆発すると言った。
虹口爆弾に日本人会会長河端を殺して、重光公使に重傷を負わせて、海軍中将野村、陸軍大将白川、中将植田など6人に重傷を負わせたが、その爆弾がどこから来たのか、捜索している途中に、韓国人が以下の宣言を発してその真相を明確にした。
この宣言をした人は高麗愛国会の領袖金九(キム・グ)氏で、彼が書いて発表した。金さんの話しでは虹口爆弾事件は自分が主導であると。その実情を世界に宣言するので、日本人は上海にいる罪のない韓国人を逮捕するなと言った。
彼が四月二九日、韓国人の尹奉吉を虹口公園に派遣して爆弾を投げつけ、目的を達成し、尹奉吉が一人逮捕されて、生死が分からないとした。金容疑者はすでに上海を発ったと語った。彼の一生は力を尽くして韓國の自由を図ることにある。日本が我々韓国人を消滅させようとする工作をしたら、我々は、引き続き抵抗するつもりだ。本会の目的は日本の領袖高官を殲滅することなので、将来日本と満州方面においても虹口爆弾が再び爆発すると伝えた。
@THEM DAYS ARE GONE FOREVEROO
上海 我らの革命党党首の中の一人である金九氏は虹口公園の爆弾令を下すことを計画し、事件がおこなわれた後、どこかへ静かに避けたようだ。
ネズミのような日本人たちが彼を捕らえようと努力をしているようであり、罪のない韓国人に邪悪な毒手を悉く使っているようだ。
韓国民族のなかで、義侠烈士は尹奉吉、金九両氏だけではない! 満州でも日本でも神出鬼没であることを知らなければならない。
暗殺は国際法に違反だということだが、私たちもそれくらいは知っている、いま、私たちの都合としてはそれ以外に出来ることがないと思われる。
一九三二年五月十九日
@THEM DAYS ARE GONE FOREVER
日本人たちは総理大臣を殺すことを「愛国上」だというのだから、もし日王を銃殺したら、何と称賛するか? 本当の愛国者と本当の武士をみるなら、韓国の安重根、李奉昌、尹奉吉などをみなさい。
@上海事変とラソン(ロサンゼルス)同胞
筆者が知っている限りラソン(ロサンゼルス)とその付近に居留する同胞たちの数は約六〇〇人に達する。彼らの多大の数が集まる時は珍しい。三一運動後、会合が何度もなかったのだ。(略)
今回の上海事件が生じたときに、ラソン(ロサンゼルス)に居留する同胞たちが一堂にいっぱい集まったという。各団体の紳士淑女たちがみな集まって大盛況を博したという。呼びかけてもなかなか来ないで、一堂に集まるのが厳しかった彼らがどのように集まってきたのであろうか? 他の理由はない。つまり上海から、青天に霹靂のように起きた、尹奉吉義士の爆弾の音に感動して、集まったことであり、第二に、安昌浩と彼の同志が敵の手につかまったという知らせを聞いて鬱憤が刺激されて、求めなくても、行きたくて、来たくて、一堂に会することになったのだ。
言い換えれば、胸襟に満ちた愛国心が爆発し、韓国の共同の敵である敵日本人に対抗する考えが何よりも強く、この時間は君の団体か、私の団体かをすべて忘れて一堂に集まったのだ。そしてラソン(ロサンゼルス)は安先生の第二の故郷だ。彼の家がそこにあって、彼の妻子がそこにいる。ラソン(ロサンゼルス)にいる同胞の中で、安先生のお仕事を否定する人もなくはないが、安先生が過去三〇年余りの間、民族のために努力していたが、今日、犠牲になったことにたいしてこそ、深い同情を示さない方はいないだろう。
このすべての動機が愛国的であり、このすべての場所が愛国的であるため、この全ての結果も愛国的になると信じる。その瞬間に、その愛国心とその熱情のように、熱烈な覚悟があるなら、何でもすべて成功することができる。多くのその瞬間は、その瞬間であるため、他の瞬間がその瞬間と同じではない。
一九三二年五月二六日
@白川大将死亡説
上海二四日、日本軍総司令白川は虹口爆弾で重傷を負った結果、昨日の報道によると内臓の出血によって死亡したという。主任医師の発表によれば、死ななかったと言い、昨日の朝十一時に、再び手術をして輸血をした後に回復する希望があると語った。
昨日外国の新聞に白川が死んだと記載されたことについて、軍当局は事実でないと否定した。白川の病状は危いが、すぐに死亡する危険はないと。
@虹口爆弾義挙と尹義士の態度厳正
(上海中国人時事新報翻訳記載する)
日本司令部で虹口爆弾事件の犯人が韓国人の尹奉吉であることが判明したため、昨日午後一時に租界に行って、独立党党首安昌浩氏を逮捕した 。…日本の警察官が韓国人を逮捕して審問し、その後日本に送り、そこの裁判所で裁判をすると言った。
@尹義士態度
日本軍の重要人物たちを攻撃した尹奉吉義士は高麗人だ。二五歳でフランス租界のダイマ路にある毛織物を染める工場の職員として、韓國の臨時政府の外交部員を務めた。その前、韓国にいる時にその父親が日本人に過酷な虐待を受けた故に、敵を討ちたいと思って上海に渡った。虹口公園で逮捕された後に、態度が厳しく沈着していて、少しも慌てず、笑みを浮かべている。尹奉吉義士はいま日本の憲兵隊司令部にあるため、厳密な取り調べを受けているとし、その内容は極秘密で、たとえ日本側の新聞記者でも実情を知らないし、伝聞によると東京に連行する云々と。
一九三二年六月二日
@上海新聞記事
五月十日、上海で発行した中国「時事新報」に記載された金九氏の英文の記事を翻訳して、虹口爆弾事件の真相を一般読者に紹介する。
虹口爆弾事件の真相はまだ明瞭ではない。上海に交流する同胞たちが先に罪なく逮捕され、甚だしくは東京にいる韓国人まで無理な調査を受けることになった。私が爆弾の主導の生き残りだ。私が上海を去る前に人道のために、正義のために、この事件の真相を公表する。私の死を喚起して、一致団結して蜂起、日本の侵略政策を破壊することを望んでいる。
日本が武力をもって韓国を併合し、再び武力で東三省を奪取し、また、理由もなく戦いを始め、上海に侵入し、このようなことはその危険性が東洋に及ぼすものであり、かつ、世界平和に及ぼすだろう。
わたしは決心し、世界平和の敵、人道、正義を破壊した者に報復するため、一番先に私は李奉昌(イ・ボンチャン)を東京に派遣した。李君が一月八日に日本の天皇を狙撃し、四月二九日に私はまた虹口公園に派遣し、日本軍閥の首領たちを狙ったのだ。これに虹口事件を詳らかに左に記録し、東京事件は後日に延ばしておく。
四月二九日、夜明けに私は、尹奉吉を呼んで、やっと自分が作った爆弾二個を与えた。その一つは我々の敵である日本軍閥を銛で突くものの、特に注意して他国の人を傷つけないようにお願いし、また一つは尹君が事件後に自殺するようにお願いした。尹君が感慨無量として承知して、私たちは涙を我慢して、別れの際に再び慎重をお願いし、来世にまた会うことを望んだ。私はすぐにタクシーで尹君を虹口公園に送るときに、彼は体に爆弾二つと四ドルを携帯しただけだ。私は尹君の成功を黙々と祈った。
尹君は、高麗、忠清道の礼山郡で一九〇八年に貧困な家で出生した。その親がまだ生存し、妻と二人の息子がいる。人となりができて神童というほめ言葉を受けた。成人に成長した後性格が快活で、人とけんかしてもいつも勝った。
十七歳に夜間学校を設立し、貧しい農家の子共を教え、五年継続した。日本が断行した経済、政治侵略によって、韓国人が死にかけていくのを見て、彼は決意して、家を離れて敵に報復することにした。上海に来る途中に、青島に滞在する間、日本人の中原賢次郎のクリーニング屋で洗濯の作業をして、旅費を稼いで、昨年8月に上海に到着して、某工場で仕事をしていたが、その工場では仕事が過酷なので、辞職した後、虹口八百屋で仕事をしながらチャンスが来るのを待っていた。
最近、私のもとに来てどうしたら韓國を救援出来るかを討議した。それで韓国人愛国団の団員となった。この愛国団は私が組織した。この団員はいずれも愛国志士として、その目的は武力で韓國を救援しようというものだ。誰でも犠牲心がある者はすべて団員になる資格がある。団員の指揮及び承諾は全て私一人であった。それでも他の団員の名前をお互いに知っておらず、また、集会もなかった。私たちの会の工作の進行は秘密にある。敵の領頭を謀殺し、敵の行政機関を破壊し、国の独立を図ること。韓国は兵力と財力では日本の司令白川と対決できない。よく訓練された警備が厳しい中で、挙事を断行したのである。
私は誰か? この手紙を書いた者は誰なのか? 私は金九だ。つまり日本軍が極力捜索する者である。私は五七歳、私のすべての生命は国を救い、独立を図るのに貢献した。(略)
虹口事件が発生する三日前に、尹奉吉義士は韓國国旗のもとで写真を撮って、まだ韓国人愛国団に向かって宣誓文を朗読した。
その宣誓文は「私は赤い真心で、韓国人愛国団の一員として、今回の中国を侵略した日本軍にたいしての私たち祖国の独立自由を追求し、回復することを図るように誓う。大韓民国十四年四月二六日宣誓文 尹奉吉」
@上海事件の犠牲者
最近、上海虹口公園爆弾事件に最大の犠牲を受けた人は韓国人だ。犠牲は大きな犠牲だが、無意味な犠牲じゃなく、効果のない犠牲じゃなく、値のない犠牲じゃなく、栄誉ある犠牲であり、莫大な良い結果がある犠牲であり、お金を払っても買えない高貴な価値がある犠牲だ。
このような犠牲なしには、韓国民族が敵の圧迫から逃れることができない。この犠牲があったため、韓民族の活発勇敢な自由精神が世界万邦に、雄弁に公布されており、この犠牲があったため韓中両国の友情はさらにさらに親密になるだろう。この犠牲があったために日本帝国軍閥主義の軍隊が動揺し、終わるだろう。この犠牲があったために世界のいろんな国が東洋の政局について目を開けて耳を傾けており、東洋の平和を擾乱させる者すなわち日本人の行動を直接、間接に妨害するようになった。
今回の事変に死刑宣告を受けた、我々の数人の犠牲者、つまり国家のために犠牲にした何人もの犠牲者を忘れてはならない。
犠牲者たちは誰か? この文章を書いているこの時間に、もう日本軍に死刑を受けているかも分からない尹奉吉義士! その犠牲こそ犠牲というより千万年歴史を明るくする英雄的行動であり、上海公園に記念碑を立てるほどの大成功をした。何の公正な理由もなく、人を蹂躙して無辜の平民の村落に爆弾をむやみに浴びせて、数万人の無辜の中国民衆を虐殺した日本軍閥の罪悪の怪獣たちを直接処罰して、全身を犠牲にした尹奉吉義士の犠牲は犠牲でも大成功だ。
中国十九路軍が一ヶ月間争っても、あの日本人の罪悪の党首をどうにもできなかったことを、尹奉吉義士は短い時間で解決したから、一個人が十万大兵でもできなかったことを成就したから大成功だ。私たちの大きな犠牲はつまり安昌浩(アン・チャンホ)氏が政治的死刑宣告を日本人に受けたのだ。彼の政治的活動はとても希望が無いようだ。もし彼の生前に独立がなったら彼がまた私たち政治社会に出て活動する機会があるだろうが、しかし、我々の独立がなる前に彼が私たちの生前に会えないようだ。
インドのガンジーのような人は刑務所の入出が自由で、独立運動をしても英国の比較的寛大な政策にあるが、あの残忍暴虐な日本人の手に引っかかった我々の独立運動家は板の上の肉であり、沸騰する鍋の中の魚だ。その生命の危険がすぐ前にあり、もちろん政治的死刑宣告である。
海外韓人独立運動者の中で安昌浩が政治的死刑宣告を受けるようになったことが、私たち全体の大きな損失であり、大きな犠牲だ。もちろん彼の系統の人の中で彼の後を継いで、引き続き活動する人が現れてくると信じるが、しかし、彼と一緒に三〇年余りの間、持続的な忠義と真心をもって国家民族のために奮闘する人物もそんなにはいない。彼が関係しても計画が何でもかんでもそれを成就することができず、敵の鉄格子監獄の犠牲になってしまうようになったのは、わが民族に大きな犠牲だ。
私たち民族の中に安重根、李在明(イ・ジェミョン)、張寅煥(チャン・インファン)、李奉昌、尹奉吉のような義侠烈志はずっと出ているが、我々の革命運動を支配するような安昌浩のような人も珍しい。彼の雄弁、彼の組織力、彼の清廉、彼の犠牲心、彼の観察力、彼の寛容心、この全ての資格は人によってすべて持てないことだ。 私たちはこの事件の犠牲者たちの後を継ぎ、犠牲的精神で引き続き活動することが彼らの犠牲をむなしくしないことだ。
@爆弾事件高裁会議に付託
東京陸軍省では五月六日午後四時に、上海爆弾事件の犯人について、だいたい次のように発表した。
1 犯人尹奉吉は、憲兵隊に留置して、尋問した後、軍法会議に予審を請求した。
1 使用した爆弾は二つとして、一つは水筒の形であり、またひとつは弁当の形で、投げたのは水筒の形であるという。
@尹奉吉義士は口を閉じて話さない
尹奉吉義士は逮捕されて以来、約十時間の間、憲兵隊の厳重な取り調べを受けたものの、まだ口をとじて話をしない。ただ、他の韓国人二人と独立運動のためにおこなったに過ぎないと、耐えているだけだという。
一九三二年十二月二二日
[別報]、尹奉吉義士の殉国 一九日、金沢刑務所で
@東京十九日
上海虹口公園で爆弾を投じて、日本高官数人を殺し、数人を負傷させた。今日十九日、日本政府は銃殺の死刑を執行した。四月に上海を侵略した日本軍が虹口公園で、天皇の誕生祝いを挙行する際に、在上海の日本海陸軍大将と外交官が参加して、観兵式を挙行する際、尹奉吉義士が爆弾を投げて攻撃した後、義士は現場で逮捕され、日本領事館警察に尋問を受けた。
@金沢十九日
上海虹口公園で日本大将白川と日本人民団長河端を殺して、重光と野村海軍中将と領事らを負傷させた尹奉吉義士は十八日夜に大阪陸軍刑務所から金沢に送られて、今日午前七時四〇分に金沢刑務所で銃殺を受けた。
一九三二年十二月二九日
@尹奉吉(ユン・ボンギル)義士追悼会 ラソン地方会の主催で
この二六日午後八時に興士団でラソン(ロサンゼルス)国民会地方会主催のもとに、上海攻撃の英雄烈士である故尹奉吉義士の追悼式がおこなわれたが、当会一般会員は沈着と鬱憤または忠魂を慰める黙想に追悼し、ラソン(ロサンゼルス)婦人愛国団の追悼文を読み閉会した。その追悼文は以下の通りである―ラソン(ロサンゼルス)支局通信。
@サンハン(サンフランシスコ)地方会の主催で
大韓二〇〇〇万民族の公憤を払拭するために、中国四億民族の公憤を憤激し、東洋の平和のために身を投げ出した尹奉吉義士の慰霊祭を、先週の月曜日夕方午後七時三〇分に、市内の韓国人の礼拝堂で地方会長イ・チョ氏の司会で追悼会を開いた。同胞たちはもちろん、付近ならびに遠くのスタクトンとサクラメントにおられる同胞たちまできて、内には立錐の余地がなく、満員になった。 愛国歌一節と最後の節で開会した後、司会者の簡単な趣旨説明がおこなわれた後に、黄サション牧師の祈祷で故尹奉吉義士が殉職した忠魂を慰めた。
金薫(キム・フン)さんが登壇して、追悼の辞を読み上げた。第一に尹義士の為国殉死・死生就義を追憶する意味を話し、第二にこの追悼で韓国一般は、尹義士の虹口精神を持ち、第三に私たちは尹義士の不十分な意味をつなげて引き続き活動しようとした。金薫氏の追悼の辞でスケジュールを終えて、八時半に愛国歌二、三節で追悼会を閉会した。
@國民會總會 公文第三十号 大韓民国十四年十二月二八日
大韓の国民会長 ベ・クイルギュ
上海虹口公園で高官数名を爆殺した尹奉吉義士が今月十九日金沢刑務所で殉国されたニュースは新聞紙上に報道されたものを見て、みんなが知っている通りです。国家民族の公憤を晴らすため、敵陣に突入して敵将を攻撃した尹義士を、韓国人たる者誰もが仰慕し、もちろん誰もが尹義士の忠魂のために慰霊祭をかけると思いますが、公文を送るので貴地方で一般的に荘厳な追悼会を開いて、故尹公の魂を慰めてください。
@尹、李両義士追弔会
本地方で、国民会議の総会の公文書により十二月三一日午後七時に、本地方会館で尹奉吉、李奉昌両義士の追悼会を挙行した。
一九三三年一月十二日
@尹奉吉義士追悼会 ジュンカジュの同胞たちの義憤沖天
十二月二六日午後二時に、我らの教会内でジュンカジュ(タニュパ、オリドゥンリ、パルリオセンゴ)の四ヵ所在留同胞男女八〇人あまりが集まって、尹奉吉義士を追悼する儀式を挙行し、開会以降尹公が十二月十九日午前七時四〇分、金沢市で敵国に銃殺された事を報告する際、一般同胞の義憤を衝くことが極度に至って、尹公の忠魂をすべて感じた心に忠義愛国の決心が充満した。
一九三三年一月十九日
@尹奉吉(ユン・ボンギル)義士追悼会 ムクギョン地方会で
一月八日夜七時に、尹奉吉義士の追悼会を開き、一般会員が悲憤慷慨するとともに、尹奉吉、李奉昌両義士の家族に見舞金を収めて送ることにしたという。
@タンピコ(メキシコ)地方会で追悼
タンピコ地方会で一月七日午後八時に故尹奉吉義士の追悼会を地方会長バン・ヨンハ氏の司会で開き、司会者の趣旨説明が終わると、書記チェ・チャンション氏が追悼文を朗読した後、尹奉吉義士の今年四月二九日虹口爆弾の義挙は歴史上にもない空前絶後に、沈着して壮快な中でおこなわれた状況を報告すると、聴衆の雰囲気は悲壮興奮した。
行事のなかで一同は、故尹義士の写真を眺めながら、感慨無量な気持ちで約三分間黙想して、殉国した義士の忠魂を追悼した後、各自誠意で尹公の義侠心と敵愾心を表して、愛国歌初の節と最後の節で閉会したそうだ。―タンピコ通信
一九三三年二月二日
@尹、李両義士追悼会 シカゴ国民会議の主催で
満堂は忠魂を追憶して
報道されてきた後に、海外各所では大韓民族の歴史を、血統を輝かせた李奉昌、尹奉吉両義士の追悼会があったことを私たちは記憶する。それで当地居留民一同は一月二一夜の午後八時半に、当地の韓国人教会の大講堂で、シカゴ国民会の主催で、李、尹両義士のための臨時追悼会がシカゴ国民会長ハン・ジャンホ氏の司会で開会された。―シカゴ支局通信
@国民会の創立第二四年記念
オハイオ州クリボルレンドゥ同胞たちが
先月十三日夜にオハイオ州クリボルレンドゥの居留同胞たちが、パク・ピル氏の家に集まって、殉国した李奉昌、尹奉吉両義士の追悼式を挙行したが、主席パク・ピル氏が趣旨を説明すると、一同が起立して両義士の肖像画に向けて三分間黙想があり、李イル君が略歴を報告し、ウ・サドン氏の追悼の辞があり、両義士の家族慰労金を収めた。(クリボルレンドゥ通信)
一九三三年二月二三日
@尹奉吉義士追悼会 ~マッダンサス地方会の主催で
マッダンサス地方会館内で、地方会長イム・ビョンイル氏の司会で、尹奉吉義士の追悼会を開いた。 (マッダンサス通信)
@ブエルモ地方会の主催で
二月五日午後三時に本地方同胞一同が会合し、尹奉吉義士の追悼式を挙行した。同地方会長は病中にあったが、尹義士追悼会を主張して殉死した忠義を追悼した。(ブエルモ通信。)
一九三三年三月十六日
@尹、李両義士追悼会
カルディェラ地方会主催で三月一日午後三時一般会員が集まって故尹奉吉義士の追悼会を悲憤慷慨した気持ちでとても静粛におこなった。
@メリダ地方会の主催で
メリダ地方会では三一記念式を挙行し、続いて李奉昌、尹奉吉両義士の追悼式をおこなった。―地方会長の通信
@○○両義士遺族救恤金寄付した方
尹奉吉、李奉昌両義士の家族のために見舞金を寄付した方に感謝する。